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「ゼロリスク」ではなく「ゼロ不確実性」こそが本丸

「ゼロリスク」という態度はよく非難されます。

「ちょっとでもリスクがあることを嫌がって絶対安心安全じゃないとダメだ」という態度です。そんなこと言い出したら何もできないじゃないか、というわけです。

最近でもコロナ禍の時にちょいちょい議題となっていた印象があります。

「こうしたゼロリスク思考の蔓延が社会の病だ!」と大きく非難されてることも時にありますが、よくよく考えると、私たちの社会はさほど「ゼロリスク思考」でもないんじゃないかと思うんですよね。むしろ、私たちは「リスク」を提示されることで安心さえします。

たとえば、医療現場で定番なのは、手術や薬の合併症のリスクの説明です。この手術をすると0.001%の確率でこんな合併症が起きる場合がありますよ。この薬を飲むと30%の確率でこんな副作用が起きる場合がありますよ。こうしたリスクの説明を受けることで、むしろ患者さんは安心して納得してその治療を受ける決断をすることができる。リスクの情報提供が安心につながってる事例と言えるわけです。

なお、ここで言う「リスク」は、(一般の方には違和感があるかもしれませんが)専門的な通例にならって、良い結果が得られる場合も「リスク」と扱います。「この薬を飲むと10%の確率で効果が出ますよ」というのも一種のリスク説明なわけです。こうした良い結果に関するリスク説明であっても、多くの人は安心を得るのです。

もちろん、いわゆる「ゼロリスク」思考の人にあっては、余計に怖がる可能性はあります。しかし、むしろ多くの人にとって「リスク説明」は安心材料となっているのです。だからこそ、私たちは医療を受ける時にインフォームドコンセントを望みますし、何か大きな社会的決断がなされる時に「リスクを説明しろ」と報道陣が責任者に詰め寄るのです。


しかし、「リスク」で安心するとはどういうことなのでしょう。「リスク」は私たちにとって恐ろしいもののはずではなかったのでしょうか。「ゼロリスク思考」の批判の文脈ではリスクが恐ろしいものであることが前提だったはずです。

実際、「リスク」はやっぱり恐ろしさを秘めているものではあると思います。ただ、それよりももっと私たちにとって恐ろしいものがあり、それに比べたら「リスク」は安心だということなのです。

「リスク」よりも私たちが恐れるもの、それは「不確実性」です。


「不確実性」とは何でしょうか。

定番の定義は下記のようなものです。

「リスク」とは測定可能な不確実性を意味し、「不確実性」は確率計算できない真の不確実性を意味する。

つまり、確率が計算できる「リスク」よりも、確率の計算すらできない、すなわちどれぐらいの確率で起きることなのかどうかさえさっぱり分からない「不確実性」こそ、私たちが真に恐れていることなのです。


身近な例で、天気のことを考えてみましょう。

なんとなく外を見てみたら雲行きが怪しい。今日は大事なおでかけの日なのにもしかして雨が降るのだろうかと不安になる。そういう時に私たちは自然と天気予報を見ようとスマホを手にします。

そこで「降水確率50%」という数字を見る。確かに微妙過ぎる数字なので安心というわけではないけれど、おおよその雨が降る可能性が分かったことで、私たちは少し心が落ち着きます。これからの作戦を考える余裕が出てくる。

ここで天気予報を見られなかった場合を想像してみてください。きっと空をにらみつけながら「降るのか、降らないのかどっちなんだ?」と延々と悩みがぐるぐる回ることでしょう。どれぐらいの降水確率なのか知りたくてたまらなくなるはずです。

これぞ私たちが確率が判明している「リスク」の状態よりも、確率さえが分からない「不確実性」の状態に不安を覚えることの典型例です。「不確実性」があまりに不安なので、とにかく「リスク」を知って安心したくなるのです。


往々にして「ゼロリスク思考」が強く非難されるので「リスク」とは不安材料だとみなされがちですが、その実私たちは「リスク」で安心を得ているところがあるんですね。

しかし、「ゼロリスク思考」に弊害があるように、とにかく「不確実性」を嫌いそれを「リスク」に変換しようとする、言わば「ゼロ不確実性思考」にも弊害があります。

「ゼロ不確実性思考」になると、とにかく未来の事象(とくに悪い事象)の見込みを確率で表したくなったり、あるいは未来の把握につながるような数字を見ることで安心したくなったりします。「その職業がAIに将来仕事が奪われる確率」をランキングにしてみたり、「自分があと何年生きられるか」を平均余命表を見ることで安心したりします。「確実には分からないけれどだいたいこんな感じなんだな」とホッとする。

必ずしもこれらの個々の活動が悪いということはないのですが、社会全体で不確実性への嫌悪が広がった結果、こうした「リスク変換」への執着が相当に強まっているように思われるのです。統計学の発達や、ビッグデータの活用もあいまって、私たちは何でもかんでも「リスク」で表したくなっている。いや、むしろ「リスク」で表したいからこそ統計学の発達やビッグデータの利用の整備を進めているとも言えるかもしれません。

こうした「不確実性のリスクへの変換」は実は永遠に終わることがない作業です。なぜなら「不確実性」を完全に消すことはできないからです。

どんなに高度な統計を駆使したとしても、解析に際し、結果を説明する全ての適切な因子が得られているという保証はありません。私たちが見落としている隠れた因子がある可能性は常に残ります。

誤解しないでいただきたいのは、ここでは別に「不確実性が残る」からリスク計算や統計学に意味がないと言おうとしているわけではないことです。多くの統計学者は「不確実性が残ること」は承知の上で、つまりその分析の限界を理解した上でなおそれを学問的に探求することに意義を見いだしているはずです。

しかし、問題は、知らず知らずのうちに私たちが統計を回す目的が「不確実性を排除した結果得られる安心」になっている場合です。そうなると「ゼロ不確実性思考」という病に陥っています。


そもそも、統計解析自体に「どうしても不確実性は残る」という限界があるだけでなく、個人が統計を解釈する時点でも不確実性が存在します。

たとえば、「人生100年時代」と言われるようになりました。なるほど人々の平均寿命は延び続けて100年になる日は近いかもしれません。

さて、ついに「平均寿命が100歳になった」という統計が出たとしましょう。ここではそのデータは本当に確実であるとします。でも「平均がそうだからといってあなた個人が100歳まで生きられる保証はない」のです。

統計のやっかいなところは、どうしても集団に対する評価である点です。それがいかに集団の性質について確実なことを言っていたとしても、あなた個人にとっての確実なこととは言えないのです。

おそらく当たり前の話だと思われるでしょう。いやほんと当たり前の話なのです。しかし、ここに「ゼロ不確実性」への執着が入り込むと、途端に恐ろしいことが起きるのです。

「ゼロ不確実性思考」の上で、集団に関する確実な統計を前にして、自分自身にとってより確実な結果であると安心するためには大きくふたつの道があります。


一つ目は統計解析の細分化です。たとえば、「男性の平均寿命は何歳」「女性の平均寿命は何歳」とサブカテゴリーをわけて解析します。そうすると、より「集団の特性」が「自分個人の特性」に近いようにカスタマイズできるので「不確実性が減った」と感じられるわけです。

これがそこそこのところで納得して止められるならよいのですが、これまたやっぱり不確実性は残るので「ゼロ不確実性思考」だと止められなくなります。

カテゴリーが「男性」だけじゃ不安だから、「60台」という年齢の要素も入れなくちゃ、いや「高脂血症」の要素も入れないと、いや「日本人」という要素も……と延々と自分個人の特性に合う因子をカスタマイズし続けることができてしまいます。なんなら今は遺伝子についての情報も含めて、自分のリスクを把握しようという動きも出ています。

遺伝情報でもなんでも、どれだけ加えても、それでも所詮有限個の因子では到底完全に自分自身を表せたという保証は得られません。だけど「ゼロ不確実性思考」に陥ると、自分を説明するよりカスタマイズされた因子を加え続けることをやめられない、もっと自分をより正確に表す因子があるんじゃないか、不安に駆られた結果どこまでも行ってしまうのです。

どこまでもどこまでも統計が細かく細分化されつつある最近のトレンドには、ただ学術的な探求心というよりも、こうした「ゼロ不確実性思考」の背景が隠されているように思えてなりません。


もうひとつの道は、平均人への迎合です。つまり自分自身を「普通」に合わせたくなるということです。

集団の統計結果(リスク情報)を見て、それが自分自身についてのことである(不確実性がない)と安心するためには、集団の特性と自分の特性が合致すればいいわけです。

先の「細分化」は集団を細かく分けることで自分に近づけようというアプローチでしたが、こちらの「平均人への迎合」は、逆に自分を集団に近づけようとするアプローチです。人は安心するために、自分をゆがめてでも「普通の人間」になりたがるのです。

さほど珍しいことではありません。「普通の人はこうしてるから」「みんなやってるから」として「じゃあ自分も合わせよう」とした経験は誰もがあるでしょう。なぜそうしたくなるかといえば、その方が先が予想できて安心できるからです。みんなと同じ道を行けば「だいたいこういう未来になるだろうな」と予想がつくようになる。周りの人を見ればイメージが湧く。不確実性が減った気がして安心できる。

しかし、自分だけが皆と違う道を進んだらどうでしょう。先例がない、誰もやったことがない。自分個人という特殊な人間が、誰もやったことがないことという特殊な道を行こうとする。そんな「外れ値」的な、リスク計算さえもできない不確実な状況に不安が押し寄せてくること必至です。

こんな状況は「ゼロ不確実性思考」であれば耐えられません。だからみんなと一緒であろうとする、普通であろうとする。「自分は他の人たちと違う」ということを認めたくなくなる。時に内心から違和感が押し寄せてきたとしても、自分を騙してでも集団に迎合しようとする。そうでないと不安だから。


このように「ゼロ不確実性思考」に陥ると、際限なく細分化された統計カスタマイズを追求するか、自分をとにかく「普通の人間」にしたいと暴力的なセルフ矯正を始めることになります。

ここまでくると「不確実性をリスク変換すること」への依存症とも言える事態です。そこから得られる束の間の安心感を得続けるために、その実その行為に自身がさいなまれているのですから。


もっとも、上の話はあくまで極端に言ってるところはあります。多くの人はここまでにはなっていないと思います。

ただ、おそらくこういう「ゼロ不確実性思考」に陥ってる時は誰にでも多かれ少なかれあるのではないでしょうか。安心したいがために数字を追い求めたり、安心したいがためにみんなに迎合したり。多分、誰もが「ゼロ不確実性思考」の素質を持ってます。

そして、そこはかとなく社会全体としても「とにかく数字でリスクを把握しよう」「数字で裏付けされた合理的で最適な道を行こう」というトレンドがあるように感じられてなりません。ひそかに「ゼロ不確実性思考」の社会への浸潤が進んでいるんじゃないかと。


だから、私たちはどこかで「不確実性」の不安を受け止める必要があるのでしょう。それは「リスク」以上に恐ろしい魔物ですが、多分いつまでも逃げられません。対峙しないといけない時が来る。

きっと、私たちの真の宿敵は「ゼロリスク」なんかではなく「ゼロ不確実性」なのです。



※なお計量不可能な概念なのでほんとは「不確実性」に「ゼロ」をつけるのも変なんですが、そこまで言うとややこしいのでお許しくだされ。

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