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もちろん「ゆるい職場」なんてダメで「きつい職場」こそが良いというわけでもない

ちょっと自分で「書き足りてなかったなあ」と気になってきちゃったので、今日は昨日の補足説明を。

昨日のnoteで「ゆるい職場」にブルシット・ジョブの香りがすることを書いたのですけれど、だからといってもちろん「ゆるい職場」なんてダメで「きつい職場」こそが良いと言いたいわけではありません。
実を言えば、あえて「きつい職場」を肯定する理路も一応ありえないわけではないのですが、江草個人的には「きつい職場」を称揚することは余計ダメだと考えています。

「きつい職場」ならブルシット・ジョブでないとは限らない

ワークライフバランスに配慮されたホワイトな「ゆるい職場」でこうしてブルシット・ジョブ問題が顕在化したからといって、ブラックな「きつい職場」ならばブルシット・ジョブでないとは限りません。「きつい職場」であってもたいして意義ある仕事をしていないブルシット・ジョブである可能性はあるのです。

たとえば、若手の離職に悩む「ゆるいブルシットジョブ職場」が一念発起して、無理やりそれっぽい仕事を作り出して若手に残業や心的負荷をかける「きつい職場」に形式上は変貌したとしましょう。
しかし、それはたいした意味のないブルシット・ジョブに、無理やり作り出した新たなブルシット・ジョブを付加しただけで、結果「きついブルシットジョブ職場」に変わっただけでしかありません。
ブルシット・ジョブが「ゆるい職場」において見えやすくなるだけであって、「仕事のゆるさ」は別にブルシット・ジョブの必要条件ではないのです。ブルシット・ジョブが仕事内容の質(意義)を対象としている概念であるのに対し、「ゆるい」とか「きつい」という言葉は労働環境面で量的負荷を対象としているので、あくまで別の話です。

なぜ「ゆるい職場」でこそブルシット・ジョブの問題が顕在化するのか

ではなぜ、「ゆるい職場」でこそブルシット・ジョブの問題が顕在化するかと言えば、「ゆるい職場」では労働負荷による麻酔が解けるからと江草は考えています。

人には苦労をした経験に意義を見出そうとする「努力の正当化」バイアスがあることが知られています。
まあ、気持ちは分かりますよね。自分が苦労したり努力したり痛かったりした経験が無駄骨だったと判明したならばとてもつらいですから。そんなことは信じたくないし、考えたくもないものです。

かつて「24時間働けますか」をスローガンにした仕事一辺倒の時代では、まず仕事で多忙すぎて仕事自体を客観的に見つめ直す余裕がありませんし、労力をすでに大量に注ぎ込んでしまっているからこそ、「努力の正当化」や「コンコルド効果」などのバイアス的に、その意義を疑うことを無意識のうちに拒絶してしまっていたと考えられます。
だから「仕事に意義があるのは当然」「仕事に価値がないわけはない」とみな素直に信じられていたのです。

もちろん、なにも当時のすべての仕事がブルシット・ジョブであったと言うつもりはありません。(無論、現在についても)
ただ、当時すでにブルシット・ジョブが存在していたとしても、こうした認知バイアスの麻酔を隠れ蓑に「仕事の意義を疑う」という行為自体が生じにくく、それゆえにブルシット・ジョブが見つかりにくい状態に置かれてたと考えられるのです。

翻って現在。ワークライフバランス重視のトレンドにあって、仕事一辺倒というライフスタイルは主流ではなくなりつつあります。

仕事一辺倒の人生であれば、仕事そのものを外から見つめる必要はありませんでした。
しかし、なにかとなにかの「バランス」を取ろうとする時、異なる二者をそれぞれの枠外の視点から比較検討して観る視点を要します。
だから、「仕事」もついに客観的にその意義を問い直されることになったわけです。これは果たして「ライフ」を犠牲にしてまで「仕事」に割くべき労力と時間だろうかと。

そして、その上、ホワイトな「ゆるい職場」においては、仕事に費やす労力や時間の絶対量、すなわち労働負荷そのものも減少に転じた結果、「努力の正当化」のバイアスによる思考の麻酔も解けやすくなりました。人生や生活の全てを注ぎ込んでるわけではないからこそ、まだ「ほんとうにこれでいいのか」と疑いやすくなるわけです。

もちろん、こうして仕事を客観的に観る視点が得られるかどうかや、バイアスの麻酔が解けるかどうかは個人差はあります。
しかし、ワークライフバランス時代となり「ゆるい職場」が増えてきたことで、全体的傾向として「仕事の意義」を疑う者が増えてきたとは言えるでしょう。
それゆえに、とても主観的意義が感じられないブルシット・ジョブが「発見」され始めた。
これがブルシット・ジョブの顕在化、ひいては「ゆるい職場離職問題」につながるメカニズムと江草は考えているのです。

単純な「きつい職場」回帰は臭いものに蓋をしているだけ

したがって、冒頭に提示した「ゆるい職場がダメだからきつい職場こそが良いよね」という結論が受け入れがたいのも同時に明らかでしょう。
それは再びみなに労働負荷の麻酔をかけ直して、見たくないものをあえて見ないようにする「臭いものに蓋」の発想と感じるからです。

もっとも、映画『マトリックス』でも虚構の幸せを進んで選んだ登場人物がいたように、もう諦めてあえて「臭いものに蓋をする」のを選ぶのを好む人もいるかもしれません。それはそれで個人の価値観ですから、仕方がありません。

ただ、江草個人の価値観としては「臭いものに蓋」は嫌いなんですよ。
そして、同じように考える人が社会には多くいるのではないかと期待して、こうして文章を綴っているのです。
微力でささやかな活動ではあるのですが、同じ社会に住むみなさんを信じてるからこそ、こうして細々と書いています。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。