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別れの季節に

3月は別れの季節。
卒業、転居、異動、転勤、退職などなど、人の動きが激しい時分です。

江草もこの度、これまで長い間よくしてくださった某先生とお別れになることが確定しており、非常に寂しい気持ちになっています。


毎日毎日繰り返し顔を会わせていると、この日々が永遠に続くように思えます。あまりにも日常になると、それが終わるなんてことを想像できなくなります。

しかし、そんなのは各々が勝手に忘れているだけで、別れは無情にもやって来ます。

別れの挨拶で「またどこかで」と言葉を交わします。しかし、大人になってくると、そう言って「もう二度と会うことがない」のがかなりの高確率でよくあることを知っています。

互いに「もう会わないかもしれない」と心では勘付いていながらも、「さようなら」ではなく「またね」と言う。会えないことを認めたくないのか、一抹の希望にすがっているからか分かりませんが、それでも誰も「永遠にさようなら」と挨拶することはありません。でも、事実上「永遠にさようなら」のケースはかなり多い。


もっとも、3月に起因する別れは普通はまた会おうと思えば会えるのです。とくに毎日のように顔を合わせていた間柄だと「また会おうと思ったら連絡すればいいや」とその時は気楽に考えます。

しかし、相手が遠方に行ったり、全然違う文化の環境に身を置いたり、そもそも最近何をしてるか分からなくなったりすると、急激に疎遠になりがちです。あれだけ毎日会って仲良くしていたのに、急に互いによそよそしくなる。それも驚くほどに。

「また会いたくなった時に連絡」。このハードルの高さに気づくのが別れの前ではなく、別れから随分経ってからというのが人の悲しい性質です。


こんな感じで、とにかく人は別れを覚悟していません。いや、覚悟したくないのかもしれません。誰に対してでもありえる別れの可能性を忘れ心の奥底の見えない場所にずっと仕舞い込んでいます。

こんな私たちの臆病さと別れの存在を強制的に思い出させてくれるのが別れの季節たる3月の大きな役割です。それなりの年数を生きてきて、ようやくそのことに気づき始めました。

こういうことを語りだすと、自分もおっさんになったなあと思いますけれど、つい若者たちに向けてメッセージを送りたくなります。

永遠に繰り返すかのように思われる日々は永遠ではないし、ずっと一緒にいられるかのように思う相手との日々も永遠ではありません。別れの後や、別れが決まってからではなく、別れの前、普段の当たり前のような日常の時にこそ、このことをやっぱり覚えていてほしいのです。


また、3月は別れの存在を思い出させてくれるのが役割と先ほど言いました。それは、だからもちろん、卒業、転居、異動、転勤、退職のような予定的な別れに限りません。不意に訪れる別れの可能性にも想いを馳せるチャンスなのです。

まがりなりにも医師という仕事をしてると、まあほんと人間いつ何が起こるか分からないことを実感しちゃうんですね。平均寿命が人類史上でも最高レベルの時代ではありますけど、誰だって突然死ぬってことはあり得るわけです。「また会おう」とか「また連絡すればいい」とかそういう一抹の希望すらも圧殺するような最強の別れが私たちの日常の背後にはこっそり潜んでいます。このことは江草は個人的にも肉親を突然亡くした経験がありますからなおさら思います。

だから、3月という別れの季節に思い出してほしいんですね。私たちの人生には別れはつきものであることを。また、誰かとの別れを良いものにするには別れるずっと前、すなわち普段から意識していないといけないことを。そして、油断するとすぐ別れの可能性から目を背ける私たちの臆病さを。



……まあ、今回もぶっちゃけ完全に油断していた江草が言うのも説得力が皆無なんですが、毎回寂しい気分にやられると、そろそろ学習しろよと自分にも言いたくなりましてね。自戒を込めて書いてます。

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