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「信じる」ということ
「信じる」ということはよくよく考えると「騙されること」と表裏一体なんです。
世の中ではなんでもかんでも「エビデンスはあるんですか?」と聞かれるようになったと嘆かれています。そこまで世の中がエビデンス主義になってると思ってなくとも「自分の主張の説得力を増すため根拠を書くようにしましょう」というアドバイスは誰でも聞いたことがあるでしょう。根拠というものが信じるための必要な条件であるかのようになってきています。
ただ「根拠があるからその人(あるいは主張)を信じる」というのは実際には正確ではありません。その場合はあくまで根拠を信じているのであって、その人自体を信じているわけではありません。言い換えると、根拠を求めるならば、その人や主張そのものを直接的に信じているわけではありません。「信じられる根拠」を信じているにすぎないのです。
だから、根拠を求めた時点で、その対象自体を信じてはいない。つまり「根拠の要求」と「信じること」は両立しないと言えます。
このことは、なぜなぜ分析やらソクラテス問答法のように、根拠の根拠を尋ねていくことを考えればわかりやすいかもしれません。
何かの主張を聞いて根拠を尋ねたら、根拠が出てきました。でも、その根拠の根拠をさらに尋ねることはできるでしょう。それは本当に正しいんですか、根拠を出してくださいと。そうするとまた根拠の根拠が出てきた。でもまた、私たちはさらに根拠の根拠の根拠を尋ねることができます。
永遠に続くじゃないかと思われるかもしれませんが、その通りで、永遠にこれは尋ね続けられることになります。これは無限後退と呼ばれます。私たちが子どもに「なんで?なんで?」と矢継ぎ早に尋ね続けられると答えに窮するのはこの状況に陥るからですね。
でも、こんなことをずっと問い続けていたら、私たちは現実の生活がにっちもさっちも行かなくなります。だから、私たちはどこかで「この根拠は無条件に正しいと信じよう」という打ち切りをしているものです。
もっとも、どこまでも永遠に根拠を問い続けようとする懐疑主義という立場もあります。ただ、世の中の人々がさほど懐疑主義的には思えないので(そういう人は本気でなんでも問い続けるので目立ちます)、結局はどこかそこそこのレベルの根拠を信じることで納得していると言えます。
つまり、根拠を求めるエビデンス至上主義っぽい世の中であっても、結局は私たちはどこかで何かを「信じてる」わけです。
さて、このように「信じる」の本質が「根拠を求めない」であるとすると、つまりそれが正しいという根拠はないということになります。だからこそ「信じる」という行為はそれが間違ってる可能性を常に内包しています。すなわち「信じると騙されうる」というわけです。
でも、みんな騙されるのは嫌ですし、間違うのも嫌ですから、とりあえず何事もちょっとは疑って根拠を求めようとする。世の中でそういう姿勢が強まってるのが今なのだと言えるでしょう。
では、そういう「とりあえず根拠を求める世の中」で何が問題となってきているか。それは人間不信の蔓延です。
「それってあなたの感想ですよね」という流行りワードがあるように、一般的に言って、個人の意見(感想)というのは最も根拠が薄い浅層に位置しているとみなされています。これは他人の意見に対してだけでなく、自分の意見に対しても皆そういう認識をとっています。パッと思いついたアイディアを「いや、でも本当にそうだろうか、自分の勘違いかもしれない」と疑って根拠を求めようとする時、自分で自分自身を疑っているわけです。
言ってみれば、「この人は信じられる」と自分が直観的に思った時、それは「この人」と「自分」という二重の意味で人間を根拠なしに信じていることになります。
そうやって人を信じた結果、結局間違ってたり、騙されたりする事例がしばしばあった。じゃあもっと慎重になろうとして人を信じる前に何か根拠に基づこうとしてるのが昨今の世相というわけですね。特に科学はできる限りこうした主観を排して客観的であろうとして大発展を遂げました。
この「より正しくあろう」「騙されないようにしよう」という動機は全く責められるものではありませんし、それで実際に得られた正確かつ巨大な人類知は確かにかけがえのないものであるわけです。
ただ、その副作用にも目を向けなければならないのだろうと思います。その副作用とは、根拠を疑う旅路の第一層目に位置する「人間」は常に疑われる存在になってしまったということです。
表向きは「人間」も信じられてはいます。ただ、実績はありますか、肩書きはありますか、利益相反はありませんか、その発言の根拠はありますか、などと条件付きの「信じる」です。そして、それはあくまで根拠の方を信じているのであって、その人そのものを信じているわけではなかったのでしたね。
だから、何かにつけて根拠を求める社会というのは必然的に人間不信社会であるのと同義です。全く知らない通りすがりの人は「信じる根拠がない」ので「信じられない」という社会になっています。私たちのデフォルトの対人モードが「信じない」になってるわけです。
映画なんかでよくありますよね。ひょんなことで隕石が落ちてくるのを知った主人公が大騒ぎするけど誰も信じてくれない。「それ根拠あるの?」と誰も見向きもしてくれない。だから、なんとかして証拠を見せようと奮闘する。
しかし、今や、隕石のような大それた話でない些細なことでさえも、そういう「自分の話を信じてもらうために根拠を用意しようとすること」でいっぱいになった社会になっている。そういう副作用が生じているわけです。
もっとも、薬でも手術でもそうですが、副作用や合併症があるからといってたちまち悪ということにはなりません。根拠を求める懐疑的な態度は必要だし有用だし、江草個人的にも好きではあります。最近しばしば見受けられる反エビデンス論者はこのあたりの「根拠を求めることの良さ」を過小評価してる印象は拭えません。
ただ、なんにしても、私たちは相互に単純に素朴に人として信じあえなくなっている。少なくとも信じにくくはなってきている。そういう社会的副作用が起きてるんじゃないかという指摘自体は心得ておく必要はあるでしょう。薬剤の市販後に有害事象が報告された時に、たとえ実際にそれが極めて効果がある薬だとしても、有害事象を見て見ぬふりをしてはいけないのです。
というわけで、冒頭に述べた通り、「信じること」というのは「騙されること」と表裏一体です。
「騙されたくない」を突き詰めすぎると、誰も信じられなくなってしまいます。逆に、誰かを信じたいと思うなら「騙されるかもしれない」「騙されても仕方がない」とする覚悟が必要になってきます。
誰もがおそらく相互不信に陥ってる社会は嫌だと思っている反面、実際にオレオレ詐欺のような騙そうとする輩が社会に存在している中でやっぱり「騙されたくない」と考えるのも自然です。
信じるのか信じないのか、このジレンマが私たちを大変に悩ませているのです。
そして、困ったことに流行りの「根拠を求める」という対応ではその場、その時のジレンマが一見収まって見えてるだけで、その癖がつけばつくほど私たちの相互不信は強まってしまいます。すなわち、「根拠を求める」姿勢は根本的なジレンマ解消にはつながっていないという悲しみがあるのです。
さて、ここまで江草は「信じること」について語ってきたわけですが、理屈はつらつら述べていますけれど、いわゆる「エビデンス」風な根拠は全然提示していません。
だから、今回の江草の話にも「根拠を出せ」と求めることは可能とも言えます。一方でこれ以上の説明を求めず「確かにそうだ」と納得することもできるでしょう。
つまり、江草の今回の話を信じるか、信じずに根拠を求めるかは、みなさま次第です。
しかし、内容が「信じること」そのものであるために、結局はどちらを選んでもこの話のロジックに巻き込まれてしまうというカラクリなんです。
面白いでしょう?
では、最後に、この話を象徴する「ボケ」を引用してシメにしましょう。
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