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「頑張った」は小学校で卒業しなさい

私の一般入試チャレンジは2022年度から3年度にわたって行ったわけですが、期せずして最終年となった今年はフォロワーも増えたせいか、大衆的なコメントが増えた気がしました。

よくあるコメントに「受験生は必死になって勉強している。大して勉強もしないで受験するなんて他の受験生に失礼だ」みたいなものをいくつか拝見しました。
社会人的には一蹴する意見ですが、ここは丁寧に分解していきましょう。

1:「勉強」とは何か?
彼らの言う勉強とは一問一答の暗記(笑)とか、直接的な受験勉強のみを指します。
外国人と会話コミュニケーションで自然と身についた英語力などはここでいう勉強には該当しません。高学歴が多いとされる富裕層家庭は生活そのものが勉強の宝庫で、自然と多くのものを身に着けています。
当然、社会人を長らく経験してきた私は、その経験に裏打ちされた勉強を積んでいます。特に現代文は現役時代から得意でしたが、現在はその深みを増しています。

2:本当に「必死になって」勉強しているのか?
コメントの中にはたとえ日東駒専第一志望の受験生だって・・・みたいなくだりもありました。本当に1日8時間も10時間も半年以上やっていたなら、勉強法を疑った方がいいし、短時間で終わらせて、他の活動に費やすなり、遊ぶなり、寝るなりした方が有意義です。もしかすると必死のハードルが低い可能性もありますね。
また、私大入試では入試戦略も勉強と同じぐらい大事なのに怠っている受験生は多いです。

3:「失礼な受験生」がいて困ることがあるのか?
そもそも、一般入試は誰にでも開かれた試験であり、それこそが一般入試の長所です。不公正など、変な試験を実施しようものなら潜入調査だってできますし、公開・平等な試験制度維持のためにも開かれていることは素晴らしいことです。
失礼な受験生とやらも、受験料を納めて同じルールで入試を受けています。誰からも文句を言われる存在ではないどころか、大学側に収入をもたらしています。
必死に勉強しているとおっしゃる受験生が、まさかノー勉の社会人受験生に負けるわけがないはずですので、問題ありません。まさか、ノー勉の社会人に負けて、必死な受験生が落ちるから失礼などという恥ずかしいことは言いませんよね? 

閑話休題。
彼らの「頑張った」みたいな表現の源泉はどこにあるのだろうと教育者なりに考えました。恐らく、義務教育によくある「結果よりもそれに至る過程の方が大事」みたいな教員の指導が大きい気がします。
もちろん、努力の大切さを教えることは幼少期には必要ですし、教員にとっても努力してくれる体制を整えるのに便利な言説です。しかし、もう中学生になったら結果がすべてでいいではないですか。「頑張ったからそれでいいんだ」みたいな慰めをいつまでやるんですか、「頑張り方が下手なんじゃないのか」とは言わないのでしょうか。
その頃、中学受験生は「さあ、競争だ!」のスローガンをもとに1点勝負をしているのです。こうして、公立でしか教育を受けない子供と、塾や私立で教育を受けた子供に差がどんどんできてしまいます。

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