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慶應義塾と野球

慶應義塾大学4年生の清原ジュニアがプロを目指すとの記事がありました。中学校や高校時代は別のスポーツを経験し、大学で野球に本腰を入れる異色の存在も、既に一目置かれる選手のレベルにまでなっているとのこと。186cm 90cmと野球をプレーするには理想的ともいえる体格を備えています。
単に清原の息子だから、という意味だけではなく「新たなプロ野球選手のロールモデル」にもなりうる話として応援しています。アメリカでは他のスポーツを経験しながら最後は野球選手になるというケースが非常に多く存在します。使う筋肉も異なれば、成長する部位も異なるのでバランスがいいのと、同じ部位を集中的に使うことによる故障も防ぎやすいと言われています。
とはいえ、前例のないものや、時に悪弊も含む今ある文化に一石を投じるのはなかなかできるものではありません。ましてや、前例踏襲主義、古臭い考えが浸透している野球界では尚更です。そこに食い込んでいけるのは「清原ブランド」「慶應ブランド」あってこそではないでしょうか。

さて。

昨年の甲子園でも若き血がさんざん叩かれましたが(笑)、あの若き血に救われた、学校のいじめられっ子、パワハラ被害者、野球部内で迫害を受けた部員などを数えたら何万人何十万人レベルでは済まないはずで、何百万人、何千万人の域ではないでしょうか。
ゴリゴリの古臭い集団スポーツといえば、野球、アメフト、ラグビーが主流ですが、公立中学校にアメフト部やラグビー部はほとんどないですので、クラスで覇権を握っているいじめっ子といえば野球部が主流でした。「野球部にいじめられた」という子は多いのではないでしょうか。
彼らは勉強はできませんが、理不尽な世界に耐えてきて上の人間の目しか気にしないそのマインドは、日本企業の社内政治にマッチして会社内でも影響力を与えます。そんな彼らの部下となったひ弱な優等生タイプは社会人になっても野球部に明に暗に迫害されます。なにを隠そう、この私も小学校中学校社会人と「野球部」にいじめられ続けた人生でした。
もちろん、いじめる当人が悪いのですが、そのようなマインドを作る土壌は日本のアマチュアスポーツである野球部にあり、部員もまた被害者です。坊主強制というのは外見上現れた特徴の一つでしかなく、問題の本質は極度の上下関係、体罰、飲酒喫煙、付き人制度、睡眠時間すら満足に取れない体制、怪我をおして練習・出場するのが当たり前の文化など、中高生の部活スキャンダルといえば野球一色です。肘の痛みに鞭打ちながらも完投勝利みたいな記事をメディアが書き、感動している高校野球ファン、投げさせた監督もメディアも高校野球ファンもみな加害者側です。
こう書くと「一所懸命頑張っている高校球児を愚弄するのか」みたいな典型的すり替えをする方がいますが、高校生ではなく、球児の周囲にいる大人、教員、指導者、企業、メディアが主因です。すり替えをしたあなたもその一人です。

しかし、結局こうした悪弊を貫き通した高校が強豪校であり、優勝している以上、野球界の正義になってしまいます。だから、一石を投じるには一度は優勝しなくてはならなかったのです。
そんな中「私の学校、我が慶應義塾」が、甲子園をフィーバーに持ち込みました。長髪の子も多く、部員の美白が話題となり、勉強もしっかりする部員が短時間の練習で、決勝まで勝ち上がりました。社会的な活躍が約束された学生や、社会的地位の高い塾員(卒業生)が飛行機やグリーン車で駆けつけ、場を圧倒して、一石どころか日本の学生スポーツ文化を変えるぐらいの功績を残していきました。
私は仕事柄、高校で講演をすることも多いのですが、髪の毛が生えている野球部員を目にするようになりました。慶應となんら関係がない高校にも、こうやって文化が根づき始めています。児童虐待は連鎖すると言いますが、野球部員への迫害がなくなれば、教室での一般生徒への連鎖も当然に減るでしょう。その意味で、昨年の優勝はただの優勝ではなく、特にいじめられてきた多くの人間にとってのスーパースターなのです。

今年の4月1日、慶應義塾大学の入学式では塾長の式辞にこのような発言がありました。
「慶應義塾において絶対に許されないのは、他人の尊厳を傷つけることです。慶應義塾が求める気品のレベルは非常に高いもので、他人の尊厳を傷つけるようなことがあれば、法律で罰せられないレベルだとしても、慶應義塾では厳正に対処します。自由の中において風紀を乱さず、社会の手本となることを心がけてください」
もちろんどこの大学や学校でも似たような発言がありますが、ここまで言い切るのは非常に珍しい例です。荒れた公立中学校で我が〇〇中学校が求める気品のレベルは非常に高いなどと言おうものなら首を傾げてしまいますから、この発言には築き上げた実績が必要不可欠です。若者なので、中高大と慶應に10年もいれば、遊ぶこともあるし、ちょっとした悪さもするかもしれませんが、でもここまで言い切られれば根っこに流れて、ふとしたときに思い出すものです。
式辞には「全社会の先導者を目指す」という言葉もありました。まさに歴史に裏付けられて実証されている重みのある、机上の空論ではない言葉です。その一端が野球においても表れた、そう解するのが自然ではないでしょうか。私はこのコミュニティの一員になれたことが誇りですし、皆さんが噂するように、今後の人生で大学院など、他の大学にさらに進学することがあっても、慶應義塾の一員であった誇りを忘れることはないでしょう。

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