見出し画像

「山崎パン」と『セメント樽の中の手紙』

      

 山崎パンの千葉工場でアルバイトの61歳の女性が、菓子類の製造中にベルトコンベヤーに巻き込まれて死亡するという事故が起きた。オレはふと葉山嘉樹の短編小説『セメント樽の中の手紙』を思い出した。




――私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器(クラッシャー)へ石を入れることを仕事にしていました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌りました。
 仲間の人たちは、助け出そうとしましたけれど、水の中へ溺れるように、石の下へ私の恋人は沈んで行きました。そして、石と恋人の体とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へ入って行きました。そこで鋼鉄の弾丸と一緒になって、こまかく細く、はげしい音に呪いの声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、立派にセメントとなりました。
 骨も、肉も、魂も、粉々になりました。私の恋人の一切はセメントになってしまいました。残ったものはこの仕事着のボロ許りです。私は恋人を入れる袋を縫っています。




 現代にも同じような悲劇がある。それが今回の山崎パンの事故だとオレは思ったのである。61歳となると若い頃のように機敏には動けないだろうし、疲れてくれば注意力も鈍ってくる。そして製造現場からは「ベルトコンベヤーのスピードが速くて追いつかない」と嘆く声があるという。自民党の国会議員は裏金で潤ってるのに税金を払うこともなく、その一方でこのような悲劇が起きている。昔は55歳で定年だったというのに今は70を越えても働かないと生活していけないほど年金は少ない。




 日経平均株価は史上最高値を更新した。その背景には好調な企業業績があるとされているが、社会に豊かさの実感はない。資産を増やしてるのは金持ちや大企業ばかりで庶民は貧しくなるばかりである。貧富の差は拡大し、多くの人たちが「ワーキングプア」という状況に置かれている。働いている人の多くは「非正規雇用者」であり、いつでも使い捨てられるという状況下にある。こんなひどい世の中のどこが「豊か」なのか。




 この春、多くの企業が賃上げするという。大企業がため込んだ富を放出すれば少しは社会が豊かになるのだろうか。円安がどんどん進むことで輸出企業は空前の利益を上げる一方、輸入品の価格が上がることで物価高が庶民を直撃している。



 日本がどんどん貧しくなったのは、政治が庶民の側ではなく政治献金をくれる大企業の方を向いていたからである。わずかな政治献金を政治家にばらまけば、自民党議員は大企業の思い通りの政治をしてくれる。法人税を減らし、所得税を減らし、その一方で消費税を上げる。大多数の国民は自分たちを苦しめることしかしない「自民党」に自虐的に投票し続け、「消費税廃止」を掲げるれいわ新選組のようなまともな政党の存在すら知らない。 「国を守る」と言いながら巨額の防衛費を使ってせっせとアメリカのために盾となって捨て石になることを願い、単なる標的になるだけの新基地を莫大なゼニをつぎ込んで作ろうとしている。国を守るどころか、国を滅ぼすのが中途半端な防衛力の強化であることになぜ気付かないのか。平和国家である日本の本来の役割は米中の間に入って無意味な軍拡競争をやめさせることではないのか。




 山崎パンの事故の悲劇は、それが今の日本で働く多くの人たちが置かれた状況を如実に反映している。高齢者であってもまるで機械の部分品となって働かなければならないのである。会社の利益追求のために過酷な労働に従事しないといけないのである。製造業に楽な現場などないのである。裏金議員どもを山崎パンの生産ラインに投入してやればものの数分でコンベヤーは停止するだろう。




 今回の事件を受けてネット上には元アルバイト従業員からの「コンベヤーが速すぎて耐えられなかった」と言う声が相次いだ。生産性の向上だけが求められ、そこで働く人の苦労などは顧みられてなかったということなのだ。まるで機械の部品のように労働者を犠牲にし、使い捨てにして大企業が巨額の利益を上げるというビジネスモデルはいつまで続くのだろうか。




 オレは労働者がちゃんと幸せになれる社会が実現して欲しいといつも考えている。だかられいわ新選組を支持し、どちらかというと共産党にシンパシーを感じている。貧しいことは本人の責任だろうか。イジメが起きるのはなぜか。社会的弱者の声はなぜ届かないのか。苦しんでいる人が一人でもその苦しみから解放されるようにとオレは願ってやまない。そんなオレはいつも「あいつはアンチだ」と維新の会支持者から蔑まれてるのである。

モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。