亡き父の思い出
父が亡くなってから8年半になる。2014年の2月12日に父は亡くなった。1928年4月生まれの父は、85歳で亡くなったということになる。もしも昭和20年に戦争が終わってなかったら父は召集されていただろうし、空襲を体験する中で父は「自分も戦争に行って死ぬ」ものだと普通に考えていたらしい。
働くようになって、父の周囲には戦争体験を話してくれる方がたくさんいて、そこから父は戦場の悲惨さを理解していた。「ある民族が他の民族を力で支配しようとしても必ず失敗する」ということはよく語っていた。また、戦争での加害行為に関しても父から聞かされた。突撃命令を受けて、部下を死なせたくないために先頭に立って戦死して「部隊長が死んだので突撃できません」という指揮官の話。「大発」と呼ばれた小型船舶での物資輸送の話。父は何度も同じ話を語った。8月14日の大阪の大空襲の下を逃げ惑った父は、その翌日に戦争が終わったことを知って「あいつら、明日で戦争終わるから爆弾全部落としていきやがった」と憤った。
戦争を憎み、「そんなに人殺しがおもろいんか?」と怒り、山崎豊子原作のNHKの「大地の子」というドラマを見ながら「こんな子どもはたくさんおったはずや」と涙を流した父は、平和を愛し、朝日新聞を購読し、選挙の時は共産党に投票する筋金入りのサヨクとなった。本が好きで歴史が好きな父のおかげで、我が家には本がたくさんあった。今の自分があるのはそういう環境を与えてくれた両親のおかげである。
家が貧しく、長男でもなかったために小学校を出ると丁稚奉公するために家を出なければならなかった父は、南堀江の商家で理由もなく殴られるという理不尽な日々を過ごした。ただ、そこから夜学に通って中学を卒業することはできた。成器中学(現在の大阪学芸中学高校)が父の最終学歴である。
本好きなのも記憶力に自信があるのも、すべてこの父から受け継いだものであるとオレは思っている。小学校時代の父の通知表には「級長を命ず」「副級長を命ず」という記録が残っていた。体育と音楽以外の科目は最高の評価だった。もしも普通の家庭に生まれ、大学進学できていたなら父はどんな職業に就いたのだろうか。
たまたま成績が良かったので父はオレを医学部に行かせたかったようである。しかしオレは文学部というヤクザな道に進み、その後高校の国語教員となった。しかし、父はオレが教員になったことに失望するでも無く、「教員の仕事は人に感謝される仕事や。ものを売る商売はそれで終わりや。でも感謝の気持ちは生きてる限り続くんや。」と答えてオレを喜ばせてくれた。その教えの通り、オレは多くの教え子を世に送り出した。どれくらい感謝されているかはわからないし、もしかしたらオレのことをクソ野郎と思ってる人が多いのかも知れないが。
父の遺影の前には多くのお供え物が並ぶ。お盆の時期になるとご近所からお菓子や果物がたくさん届けられる。生前の父を知る人は近所にたくさんいるので、その方たちがこうして持ってくるのである。今年は岩手県の「かもめの玉子」や京都の「井筒八つ橋」などもある。ついさっき、近所のおばちゃんが幸水梨をくださったので仏壇にお供えした。そうした父の人徳をオレは改めて思うのである。自分はどんな最期を迎えるのだろうかということを考えつつ。
モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。