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源実朝試論


 災害が起きると日本の政治家の多くは逃げる。

 森田健作が台風を前に逃亡したことで千葉県民の評判を落としたが、その対策という面倒なことから逃げ出したいという政治家は普通に存在する。岡山県で水害で大きな被害が出てる時に自民党の議員団が宴会をしてバカ騒ぎしていたということもあった。

 多くの政治家が、ゼニや利権のためにその地位にいて、決して民のためを思ってではないということは日本の悲劇である。志の高いまともな人間は政治の世界にはほとんどいなくなった。


 鎌倉幕府の三代将軍だった源実朝は、20歳の時に見事な和歌を詠んだ。

 

 時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ

(恵みの雨も、時によって降りすぎると民の嘆きになります。八大竜王よ、どうか雨をやめてください。)


 北条義時、政子が政治の実権を握っていた鎌倉幕府で、源実朝が将軍の地位にいるということは何の意味もなかった。しかし彼は、将軍としての自分の責務を果たそうとしたのかも知れない。雨が降り続き、民は困窮していた。彼が為政者としてしたことは困窮する民のために祈ることだった。これはその責任を果たすためにただ一心に念じた和歌である。

 実朝は万葉調の和歌を意識していたわけでもなく、すぐれた歌を詠もうと工夫した気負いもなかったのだろう。ただ心の底からあふれでる心情を素直に詠んだだけかもしれない。そして天賦の才というのはそういう時にこそ発揮されるのである。推敲して苦労するのでもなく、ただ思いをぶつけて和歌を作ればそれが珠玉の作品となる。オレのような駄文しか書けない人間とは全く違うのである。


  鎌倉幕府の二代将軍であり、実朝の兄であった源頼家は、将軍になってそれほど経たないうちに無理に出家させられ、将軍職を弟の実朝に譲らされた後、修善寺に幽閉され祖父の北条時政に謀殺された。あるいは頼家の母親の政子がなんらかの形でこの頼家殺しにはかかわっていたのかも知れない。当時13歳だった実朝の心に、この事件が大きな陰を落としていたことは容易に想像できる。そういう背景から次の和歌を鑑賞すればどうだろうか。



 物言はぬ四方の獣(よものけだもの)すらだにも哀れなるかなや親の子を思ふ

(ものを言わない、いたるところにいる獣であってさえもなんと感動的なことか。親が子を愛するということは。)


 権力闘争に明け暮れ、自分の血縁の者の命でさえ平気で奪ってしまう連中に対して、そしてわが子よりも北条一族の繁栄を選んだ母に対して、実朝がこの和歌で訴えたかったことは明白である。おまえたちなどケダモノ以下の存在なのだと、彼は嘆いているのである。和田義盛、畠山重忠、梶原景時といった頼朝と共に戦い鎌倉幕府の基礎を築いたはずの御家人たちは次々とあえない最後を遂げた。



 大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けてさけて散るかも

(大海の磯もとどろくばかりに激しく打ち寄せてくる波は、割れて、砕けて裂けて、飛び散っているよ。)


 雄大な自然の光景を的確にとらえ、まるでビデオをコマ送りして瞬間の静止画像を切り取ったように精細に描いた歌である。この和歌から「力強さ」「豪快さ」を単純に感じとる人もいるようだが、私にはそうは思えないのである。小林秀雄は「大海に向かって心開けた人に、この様な発想の到底不可能なことを思うなら、青年の生理的とも言いたいような憂悶を感じないであろうか」と書いている。私もその意見に賛成だ。自分の不幸を見つめながらじっと波に見入ってしまう青年の憂いがこの和歌からは感じられる。


 しかし、自分の意志で生きられなかった実朝には、「自殺」などは思いもよらなかったはずである。彼の運命を決めるのは彼自身ではない。彼を道具として利用したい周囲の連中の思惑である。



「割れて、砕けて、さけて、散る」というフレ-ズは、鶴岡八幡宮での無惨な死をどこか暗示していたような気がしてならない。



 実朝の私家集である金槐和歌集の最後には次の和歌が配されている。

 山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心わがあらめやも

(たとえ山は裂けて海は干上がってしまうような世が来ても、わが君に謀反の心を抱くようなことが私にありましょうか、決してそのようなことはございません。)

 単なるお飾りの将軍であり、政治の実権から遠い所にあった実朝にとってこんな和歌で後鳥羽院への忠誠を誓うことは無意味なことである。風雅を愛し、和歌を愛した彼に二心がなかったことは明らかだ。ただ、北条義時や鎌倉の御家人たちには明らかに二心があった。


 自分の心情と最もかけはなれた和歌を最後に提示したのは、その対極に実朝の心情が存在したからに他ならない。こうして単なる形式的作歌者に堕した彼は歌を捨てた。


 実朝はこの和歌を最後に、秘められた自分の心情を語ることなく封じ込め、22歳以降、歌作をふっつりとやめてしまったという。その後の実朝作になる和歌は散佚したのか存在しないのか、伝わっていない。彼はそれから悲劇に至るまでの6年間の日々、何を感じ、何を見つめていたのだろうか。



 実朝が、鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺され28歳で生涯を閉じたのは、承久元年(1219年)正月27日のことであった。拝賀の儀式を終えた実朝一行が石段を下りかけたとき、石段の脇の大銀杏の陰から飛び出した暗殺者は、「親の仇はかく討つぞ」と叫んで実朝の首を斬り落とし、つづいて後ろにいた源仲章をも斬り殺して、実朝の首を持って闇の中に姿を消した。御剣の役を北条義時に替わって勤めた源仲章は巻き添えを食って間違って殺された。あるいは事前に暗殺の謀議を知った義時によって身代わりにされてしまったのかも知れない。



「吾妻鏡」には、実朝の辞世の和歌として、次の作品が紹介される。

 出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

(私が出ていってしまったら、主人のいない家となってしまうとしても、軒端の梅の花よ。春になったら美しく咲くのを忘れるなよ。)

 天賦の才を持つ歌人であった実朝がまるで菅原道真の二番煎じのような凡庸な和歌を作るわけがないし、そもそも実朝は22歳以降和歌を作るのをふっつりとやめてしまっていたはずである。北条義時がこの暗殺を事前に察知していたことは間違いない。そこで殺される予定になっていたことを知らなかったのはおそらく当の実朝一人であったかも知れない。そんな不慮の死に対してわざわざ死を予感した辞世の和歌まででっちあげた吾妻鏡の編者の意図はわからない。事件の翌日に百余人の御家人が揃って出家したという。彼等の出家の理由は同じ罪悪感の共有だ。あの日の鶴岡八幡宮で実朝が殺されることを多くの御家人がすでに知っていた。みんな実朝暗殺の共犯者だったのである。


 オレが知りたかったのは、一人の天才歌人がどのような想いで22歳の時にその天賦の才能を封印し、暗殺されるまでの日々を過ごしたかである。表現者としての実朝が唯一の表現方法である「歌作」という手段を放棄した以上、その心情の手がかりとなるものは何も残されていない。残された日記などもない。「吾妻鏡」のような「意図を持って書かれた歴史書」の内容にはかなりの創作が存在するだろう。想像することは可能だが、天才の心は天才にしかわからない。実朝に比べてはるかに凡庸なオレは、残された彼の和歌を読みながらただ想像することしかできない。


参考文献 

新潮文庫『モオツァルト・無常という事』所収「実朝」)小林秀雄

新潮日本古典集成〈新装版〉 金槐和歌集

『右大臣実朝』太宰治

モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。