お金で買えることは当たり前のことではない
私は、個人作家の雑貨を眺めていることが大好きだ。大量生産品ではなかなか難しい繊細さやこだわりを前面に出したアクセサリーや小物がとても好きだ。そんな作品をご縁があってお迎えできることは自分にとって何もよりも嬉しいことである。
個人作家の作品は決して安くはない。それは当たり前のことで、その作品を作るために施策に費やした日々や費用、その作品を作るための実費、労働に対する対価、そして作品の付加価値を考えれば全く当たり前のことである。たまにびっくりするほど安価で作品を作っていらっしゃる人はいるが、個人的にはもっとしっかりした価格で提供した方が絶対にいいと思っている。なぜなら、その作品を作ることができるのはその個人作家だけなのだから。
わたしは、作家さんのような作品を作ることはできない。本当に努力に努力を重ねれば、真似っこはできるのかもできないが、おそらくそれは紛い物に過ぎない。なぜなら、私は作家さんのようにこだわりを持って創作活動に打ち込み続けることも想像力を働かせ素晴らしい作品を作ることもできないからだ。作家さんはセンスを磨き続け、才能を開花させ、そのかけらをお金を対価にして、人々に供給してくださる神様みたいな人だと思っている。その人がいなければ、その作品はできないのだ。その人がその作品を作り上げようと努力してくださったから、その作品が出来上がったのだ。手が届かなくても、その作品がこの世界に存在するということが尊く、なんと素晴らしいことか。
個人作家が、ネットなどを通じて通販をしてくれることが一般的になった今、お金を対価にその作品をお迎えすることはかなり簡単なことになってきた。作家さんが溢れているからこそ、顧客側にもかなり丁寧に対応してくれることが多い。けれど、忘れてはいけないのは、作家さんがその作品を作ってくれなければ、金銭を対価にそれを受け取ることはできないということだ。かつて売り出した作品が2万円でもその作品を今売ってくれなければ、手元には福沢諭吉が2人残るだけで、その作品に変わるわけではない。
個人的に知り合いだけに細々とあることもできるだろう。趣味の範囲内で楽しむということもあるだろう。だけれど、安くはない材料を自分以外の誰かのために買って、たくさん作る。そして、在庫の不安も取引の不安も抱えながら、丁寧に販売してくださる。この行為のなんとありがたいことか。私のようないち購入者はそれに感謝するほかない。
今回、このnoteを書いたきっかけは、ある大好きな作家さんが受注会を行った直後に体を崩され、うまく作品が作れずに、購入者から糾弾され、悲しまれた光景を見てしまったことにある。私はその作家さんから作品をお迎えしたことはないが、その作家さんにしか作れない素晴らしい作品を作っていらっしゃる方だ。いつか手が届く時があればと願ってやまない作品を作り上げる、私にとっての神様の1人だ。確かにその作家さんの作品は安い値段ではない。けれども、私はその作品には十分その金額の価値があると思っているし、いつかお迎えするときはそれ以上の金額を払ったっていいと思っている。お金は確かに対価になりある。けれども、そもそもその作家さんが健康で楽しく作っていただける環境がなければそもそもその作品は生まれないのだ。
その人からしか生まれないものはその人が元気でなければ生み出せない物。似たような作品があってもそれは似たような作品でその人の作品ではない。私は、その人からお迎えしたいし、その作品のこだわりを付加価値としてお迎えしている。それが何よりの喜びだから。個人作家の手仕事は、納期があってないものと、まったりとまつのも、結構楽しい日々であることを私は今日も感じている。お金を対価に作品がお迎えできるのは決して当たり前のことではないと、心から、そう思う日々である。
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