1月最後の構築主義

 1月最後の日にこれを書いているのだが、「〇〇最後の・・・」といえば「平成最後の・・・」という言説を思い浮かべる。平成最後の夏。平成最後のクリスマス。このように言うことによって、平成が終わるから、終わるまでに何かをやり遂げよう、思い出を作ろう、と考えるようになる、というわけだ。何か課題を終わらせようとするときに、締め切りを設けるのと同じようなシステムである。締め切りを設けることで、課題を終わらせるための計画が立てられ、それに従って行動することができる。計画に従わなくとも(あるいは計画自体を立てていなくても)締め切りに追われ、—課題の質はどうであれ—課題を焦りながらも終わらすことはできる。
 しかし、平成最後などといっても、しかたないような気もする。もちろん、平成が終わることは事実だが、それにとくに意味や価値はない。あるとすれば、先ほど言ったようなことである。なぜとくに意味がないかというと、それは平成が終わったとしても「次」が来るからだ。われわれが平成の次の年号を予想するように、われわれは「次」が来ることを見据えながら、平成最後などと言っている。つまり、年号などなければ、いつも通りの日々を過ごしているのである。これはある種の構築主義だ。平成という時間の範囲が構築されることではじめて平成が終わるという焦燥感が生まれる。本質的には、このような焦燥感はないのだが、われわれがわれわれ自身を焦らせるために構築されたデッドライン(締め切り)なのだ。だから、これを書いている私も、2月1日というものが来ることを見据えながら、1月最後と言っているわけだ。それは1月と2月の間に境界があるからだ。
 平成という時代は境界の時代であった。平成元年はベルリンの壁という境界の崩壊があり、平成最後の年は境界をつくろうとする動きがある。われわれは境界をつくることで、われわれを焦らせようとするのだった。平成最後と言うことで、平成を何かしらの形で全うしようと焦るのだ。だから、境界をつくろうとする動きも自分たちのことを焦らせようとする動きなのではないか、と思うのである。例えば、トランプ。彼はアメリカとメキシコとの国境に壁をつくろうとしている。もともと、国境というヴァーチャルな境界はあるのだが、それを可視化しようとしている。もちろん、可視化だけではない。彼は壁をつくろうとしていることで、アメリカの人たちを焦らせようとしているのだ。「メキシコ人は危ない」、「メキシコ人は薬、犯罪、レイプを持ってくる」、といった彼の言動はアメリカ人を焦らせる。そして、実際に壁が建設されることで、焦っているアメリカ人はトランプの言っていることが本当のことだと信じてしまう。これもアメリカだけではなく、ヨーロッパ、ベネズエラ-コロンビア間、ミャンマー-バングラデシュ間など数多くだ。
 2045年に来るとされる「シンギュラリティ」もそんな感じだ。人間の知性の境界をAIが超えていくとき。これを最初に言ったカーツワイルは、間違いなくわれわれ人間を焦らせた。とくに文系の人間。「ターミネーターの世界になる」、「AIが人間を絶滅させるのではないか」、と人間の未来に焦燥感を抱く。一方、理系の人間はAIの良い面を強調する。大まかに言えば、理系がこの境界を越えようとし、文系はそれを必死に止めようとする。平成という時代は焦りの時代でもあった。
 最後、と言うときは、「次」の最初があらかじめ予定されている。このような観念は幼少時代は欠如していたのではないか、と思う。小学一年生のモットーといえば「ともだち100人できるかな」であるように、人と人との間に境界などないように思われた。それが学年が上がるにつれ、境界の意味がわかってくる。私が小学一年生のときは夜9時に寝ていたような気がするが、それも学年が上がるにつれ、10時、11時、そして12時となる。今では日と日の間を越えることは当たり前だ。年齢が上がるにつれ、境界というものを意識し始める。
 境界があるということは境界が既に見えているということである。最後があるということは、「次」の最初がある。しかし、境界が見えていない場合はどうか。それは宝くじが当たること。それは大切な人が余命宣告なしで死ぬようなこと。このような極端なことだけでなく、この世で起きるほとんどのことに境界はない。なぜなら、それらは突如偶然的に起こるからだ。「次」がわからない。明日起きたら何が起きるかわからない。
 「次」がわからないから不安になり、だから「次」を構築主義的に設置し、「次」をわかるようにする。安心しようと境界をつくろうとする。しかし、境界をつくったらつくったで、焦る。この不安からの焦りの連鎖。だから、私には境界をつくった方がいいのか、つくらない方がいいのか、わからない。いや、わからないという立場に立つ。ペンディングという立場。左か右か決めないといけない、ではなく、その決断を保留する。われわれは電話の保留ボタンを押していいのだ。そして、童心に返ってみよう。子供のころの、境界という観念がなかったとき。今日は今日、明日は明日、と「次」のことは考えない(境界という観念がないから、考えられない)けど、不安はとくにない。この無邪気で純真な子供への生成変化。子供になろうとすること。そしたら、「次」を構築するという安易な、大人な発想には陥らないのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?