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みんなでクラブハウスサンドイッチを食べよう!

ここ二日、三日、みんなクラブハウスサンドイッチを食べている。美味しそうに頬張っている。トーストされたパンに挟まったカリカリのベーコンと新鮮なレタスとトマト、そしてキューピーのマヨネーズを広げて、包丁で食べやすい大きさにカットして、具材がはみ出ないように楊枝で刺せば、もうあったかい芝生の上に持っていく準備はできた。しかし、クラブハウスサンドイッチは人を選ぶ。もちろん入っている野菜が苦手な人もいるし、マヨネーズの風味がどうしても、という人もいるから、それはそれでしかたがない。だが、話は違うようだ。クラブハウスサンドイッチは人を選ぶのではなく、人「が」選ぶらしい。つまり、選ばれた人しかクラブハウスサンドイッチを口にしてはいけないようだ。でも、クラブハウスサンドイッチはいかにも高そうなネックレスや指輪をした貴族たち限定のサンドイッチではないはずなのに、僕はたまごサンドでも食べろとでも言うのか。たしかに「クラブハウス」とは高級そうな響きをしている店のようだ。僕みたいな庶民には敷居が高い。でも、アメリカのダイナーなんかに行けば、クラブハウスサンドイッチは定番中の定番だし、ダイナーといえば田舎のなにもない、だだっ広い道路の隅っこにある、トラックの運ちゃんが寄るような食べ物屋さんだ。でも、「この」ダイナーは招待されないと入れないようだ。入り口にはスーツを着た、怪訝な顔の男が二人立っていて、ダイナーの中を覗こうとするとすぐに制止される。

僕はみんなみたいに招待カードを持っていない(みんなはどこから手に入れたんだろう)から、この不思議なダイナーの中で何が行われているのか全く想像もつかないわけだが、もちろん僕には友人がいて、そのまた友人がそのダイナーに行ったことがあると言う。その友人の友人が言うには、みんなクラブハウスサンドイッチを注文しては、ぺちゃくちゃ話しているそうだ。「なんだ、よくあるダイナーだ。」と思っていると、その人は僕の顔に鼻をくっつける勢いで、「このダイナーの最初の不思議は、幼稚園みたいにずうっと名札をつけないといけないことだ。これが不思議でしょうがない。」と臭い息を発しながら僕に言うのであった。名札には自分のフルネームを書き、それを胸のあたりに貼り付ける。名札というのは、たとえば幼稚園生だったら、先生が最初の一週間で名前を覚えるのに使ったり、子供同士が名前を呼びあったりするのに使われるから、つまり誰かの名前を呼んだり覚えたりするのに便利なのだが、なぜそれをダイナーでしなければならないのだろう。みんなクラブハウスサンドイッチを食べたくてダイナーに行くのに、なにかその先に彼らの欲望はあるのかと僕はより興味津々である。

友人の友人の話の中で、もっとも僕の興味をひいたのは、そのダイナーではぺちゃくちゃ喋るグループが何個かあって(何個といっても、そのダイナーがずっと奥まで続いていて、友人の友人も何個あるか数えられなかったらしい)、多くの人はそのグループがしゃべっているのを静かに聞いているということだ。つまり、みんなはクラブハウスサンドイッチを食べにそのダイナーに行くのでなくて、しゃべったり、人がしゃべるのを聞いたりするのだ。ダイナーでしゃべるのはよくある話だが、他の人がしゃべっているのを聞くというのは僕のとはまるで違う世界だったのでよく理解できなかった。でも、有名な人だったりなにかの物事に精通している人の話だったら、僕も講演会とかテレビとかラジオとかを聞くから、その気持ちはわからなくもない。でも、問題はやはり名札だ。なぜこのダイナーに入る人は名札をつけなければならないのか。答えは単純だ。このダイナーのオーナーが毎日帳簿をつけて、誰々がどこのグループに行ったかを記録するために、だ。このオーナーというのも変な人たち(二人いるらしい)らしく、もともとは「サンドイッチの帝王」とも呼ばれるダイナーに働いていたが、新しいサンドイッチを開発したいと、給料もよいのに辞めていってしまったらしい。結局、彼らはクラブハウスサンドイッチという絶大な人気を誇るサンドイッチを開発し、各方面から注目を集める天才的なオーナーとなったのだ。しかし、これだけの人気を博してしまったら、その地位を引きずり下ろそうとする者も出てこないはずがない。「サンドイッチの帝王」での勤務で身についた警戒心は、結果的にダイナーに入ってくる全ての人の本名を名札として確認するということとなったのだ。

こういうことを言うと監視などという不気味な言葉が出てくるかもしれないが、名札システムにも良いところがあるらしい。名札があれば、好きな人を呼ぶことができるから、しゃべっている人が突然、その話を聞いていた人を呼んで、一緒にしゃべることもできる。会話に出てきた話題に対して、この人ならこの話題について知っているから、ということで呼ばれることも少なくないという。でも、ダイナーの隅で静かに話を聞いていたいという人が突然呼ばれたりもするから、名札についてはいろいろ議論が巻き起こるらしい。

クラブハウスサンドイッチを食べながら、ぺちゃくちゃしゃべる。そんなことを僕もしたいな。僕なんかはたとえあのダイナーに入れたとしても、なにかものを口に入れながらしゃべることなどできない。二つのことを同時にやることなんて僕には無理なのだ。だから、いまではあのダイナーに入りたいとも思わないし、入っている人に嫌悪感さえ感じることがある。二つのことを同時にやるという意味では、本を読みながら音楽を聴くという人たちがいるみたいだ。僕がそんなことをしたら、本の内容が一つも頭に入ってこないだろう。そして、本の内容に集中しようとするあまり、ほら、ドビュッシーの『海』のフルートの旋律を聴き逃してしまったではないか。でも、二つ以上のことを同時にできる人ほど優秀な人が多くて、そんな人はとっくにコンサルやら官僚になって、今の僕たちの経済を支えている。あのダイナーのオーナーもそんな人たちなんだろう。

あのダイナーにはクラブハウスサンドイッチの芳醇な香りと高貴な人々の話し声が溢れかえっている。僕の行く、古い木とタバコの臭いと、おじさんたちとしゃがれた声のダイナーとは訳が違う。あのダイナーでは、みんな自分の声を使ってなにかすごいことに辿り着こうとしている。そんなすごいことが起きているのだから、人が集まって耳を傾けているのも無理はない。みんなが声を中心に集まって楽しそうにしている。あのダイナーの理想はクラブハウスサンドイッチのパンと具材たちのように、みんなが仲良く一つのハーモニーを奏でるかのように共存できること。それを聞いただけで、僕は書くことをやめそうなくらい胸が痛くなる。しかし、僕はクラブハウスサンドイッチを食べられなくとも、あのダイナーのことだけは書く。あのダイナーに入れなくとも、あのダイナーのことは書けるのだ。そんなダイナーは結局、僕がよく行くダイナーとそう変わりがない。

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