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山崎正和を偲んで:巻き込まれるリズムに巻き込まれる

 山崎正和の、今では最後の評論となった『リズムの哲学ノート』(中央公論新社、2018年)を読んでいるとき、私は著者の名前が高校の現代文の教科書にあったことを思い出した。「水の東西」という短い評論について授業内で発表したことがあった。鹿おどしと噴水という同じ水を媒介とした造形物にも、水の使い方における違いが明確にあることを書いた評論だ。
 ここで注目したいのは、そんな「水の東西」に登場する一節である。「もし流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないといえる。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい」(『山崎正和著作集5 海の桃山記』(中央公論社、1981年))。
 『リズムの哲学ノート』では、この鹿おどしについての一節が延長され、同書の第一章では鹿おどしとリズムとの関係が探られている。「鹿おどしはいわばその水の流れを聴くための仕掛けである。感覚媒体を視覚から聴覚へと置き換え、感覚を媒介とせずに、リズムを直接に楽しむ手段が鹿おどしなのだから、これがリズムの構造を体現しているのは当然だろう」(p.27)。ここで山崎は、リズムは純粋流動の中で発生する抵抗や断絶によるもので、このようなリズム形成の構造を「鹿おどし構造」と呼んでいる。山崎の例を用いて言えば、海の波は海水の沖から岸への流動の中に水の質量という抵抗・障壁があり、それが水を迂回させ、波という上下運動を発生させるのだ。
 では、私たちはリズムをどのように受容しているのか。先述した「水の東西」の一節には、リズムへの直接の言及はないが、「断続する音の響き」と「その間隙に流れるもの」というものがリズムに対応するものとして解釈してよいだろう。この時、山崎は鹿おどしのリズムを「間接に心で味わ」っている。興味深いのは、ここで山崎が鹿おどしのリズムを聴覚という感覚で受容しないという点である。もちろん音の断続的な流れは聴覚を媒介として認識されるが、リズム一般は感覚のみで認識されえない。例えば、千年の森の盛衰にリズムを感じる際、人間は森林についての知識とともに、朽ちた木々の中に見る一本の若木を見た時の感動も必要である。しかし、「千年の森の生命に触れた実感はたしかにあるのに、その感動の発生源というべきものは知識と感覚のどちらにもない」(p.16)。山崎はこのリズムは「感覚をも知性をも超えて、あえていえば身体の全身を直接に襲う現象」(p. 16)と表現するしかない。リズムはメルロ=ポンティのいう「共感覚」によって受容されるわけだ。「共感覚」は五感の共同というのみならず、人間の共存という点においても語られる。メルロ=ポンティが『知覚の現象学』で「もし知覚的経験を正確に表現してみようとするなら、私は、人が私の中で知覚するのであって、私が知覚するのではない、とでも言わなければならなくなるだろう」と指摘するように、リズムというものは他者との関係性と結びついているのである、というより他者がリズムという共感覚的経験を可能にする条件なのである。
 リズムが人間共通のものである、と改めて言うのはクリシェだが、リズムが生命体、いやすべての存在—それは「私」にとって常に他者となりうる—共通のものであって、また他者がリズムの存立条件である、と強調することは重要だろう。常に他者になりうるすべての存在たちに「私」は意図することなく巻き込まれる。リズムに、流れに巻き込まれてしまう。1895年以降のセザンヌの絵画に複雑なリズム構造をもつクラスター・ストロークを発見した平倉圭は、セザンヌの絵画と「私」の身体との関係性についてこう表現している。「後期セザンヌの絵画には、少なくとも五つの異なる周期構造が重ねられている。私の視線はそこで、複数の周波数のずれと干渉に巻き込まれる。それは空間的かつ時間的な断層の経験だ。私はたしかに横に進んだのだが、同じ場所にとどまっている。あるいは同じリズムで進んでいたのに、突如遠くに運ばれてしまっている」(『かたちは思考する』、p.47)。海の水の質量のようにセザンヌのリズムとそのずれが抵抗という強度を生み出し、可塑的な私はそれによってつくられた波に流されて、沖に行ったり、岸に戻ったりする。
 平倉圭などが採る芸術批評に対する身体論的な態度が「(音楽)批評のオルタナティヴ」(『エクリヲ vol.7』、p.22)となりうると表現されるほど、芸術と身体との関係が語られるなか、山崎は劇作家として演劇の身体とリズムの相互作用を研究してきた。その先見性を芸術批評に脈々と受け継ぐためにも、彼のリズムについての研究を再読する必要がある。「もし流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないといえる。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい」。リズム=流れとその断絶をこの身体そのもので受け取って、それごと流されていく、そういった感覚を持ちながら、故人を偲んで。
2020年8月25日

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