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「これは実験だ」:ブログ的なもののジレンマ

このブログ的なものを始めて、早3年となる。間隔が空いている期間があるものの、ここまで続いていることに驚きを隠せない。「継続は好きの表れなり」という諺がある(?)ように、私にとっては長く続くことは、そのやっていることが好きだからこそのことである。そして、その好きという気持ちは、純粋に自分が好きであると感じているものだ。しかし最近になって、いろんな人から「note読んでます」という声だったり、他の人から間接的にその声を聞く機会が増えた。自分の書いたものをパブリックに載せているからこそ、読まれていることを直接的あるいは間接的に聞くのは、それもまた純粋にうれしい。だが、うれしいという気持ちとともに、あるジレンマに再び悩まされることになるのだ。 自分の書いたものをパブリックな空間におくことは、他人に読まれることを期待した行動である。その期待がなければ、自分の目に入る場所にそれを留めておけばいい。しかしそれと同時に、まさに人文書のように読まれたくない、という気持ちもある。それはバズりたくないという表面的な感情(バズるという現象じたいが表面的だ)だけを含んでいるのではなく、自分が書いたものを読まれていることによって生じる恥ずかしさという感情がその大元を形成しているように感じる。恥ずかしさなのか、それともなにか悪いことをやっているのではないかという後ろめたさなのか。 では、最初からブログ的なものをしなければいいのではないか?そういう疑問が真っ先に投げかけられることは百も承知だ。この疑問に答えているようでは、こんな文章は書かない。私がなぜ文章を書き続けているかといえば、たんに書くことが好きである以上に、書くことは実験だからだ。実験なんて大げさだ、なんて思う人もいるかもしれないが、私はいたって真面目だ。実験内容は、このブログ的なものが周りの人の考えていることにどれだけ「ちょっかい」を出せるかどうか、というものだ。つまり、書くことがどれだけ人に、人の思考に変化のきっかけを与えられるかという社会実験である。「ちょっかい」を出すという表現は、私が尊敬している、人文系出版社を1年で辞めた先輩から借りたのだが、なんとも言い得て妙だ。 この「ちょっかい」を出すということに、先に述べたブログ的なもののジレンマが隠されている。私がブログ的なものを書き続けるのは、それが読んだ人の思考へ何かしらの刺激を与えているという期待を抱くためだ。そして、この実験はその結果がブログの閲覧数という数値では測れない、という理系のみなさんからすれば「実験」と名づける権利がないような一種の試み=エッセイである。けれども、実験結果がはっきりと見えないからこそ、読まれているのかという根源的な不安がある。最近では、読まれていることを数値でも実際に聞いた声でも実感するようになり、その不安は恥や後ろめたさへと変換されるようになった。私のブログ的なものを読んでくれている人が、私の期待通りに「ちょっかい」を出され、自分の思考が変化を促されているのであれば、その変化ははたして「正常」なのか。「ちょっかい」の出し方は適切なのだろうか。もちろん、このブログ的なものを読んで、思考がラディカルに変わることなんて毛頭ないだろうが、あくまでもパーソナルブログといっていたら、何が起こるかわからない。 書くこと自体が私にとっては実験なのであって、このブログ的なもののジレンマというのも、実験者である私自身が直面しているジレンマなのである。そして、この実験が失敗すれば(薬品が爆発するように、人の思考が思いがけない方向に、強度に爆発すれば)、それは実験者である私の責任なのである。でも、人の思考が爆発することを期待する自分もいる。後ろめたいけど、やってみたくなる。これが文系の実験だ。みな慎重で、実験じたいは時間のかかるものだが、だからこそ薬品の爆発よりも重大な効果をもたらすかもしれない。

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