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100記事目指してなるたけ毎日更新!その99、VRにおける「死」の概念について考える

Ignition.挨拶

皆さんいかがお過ごしでしょうか?

メンタルは割と健康な今日このごろ。

どうも僕です。

本記事は私、Evolution LoopのMμLT1(まるち)が100記事完走を目指してゆるーく書いている記念すべき99記事目になります。

肉体的な疲労は溜まっているかもしれませんね。

それでは今日も進化の為に書いていきます。


1st.VR空間でのシステム的な死


 VRでの死と聞くとシステム的な制約でデータが使えなくなる、またはシステムそのものが無くなってしまうということが思いつきます。

 こちらの要因としては外部の要因によっての死と定義できそうです。

 自分は悪くないけどシステムの変更・消失によって永続的なまたは半永続的な制限を受けるのはまるで死んでいるかのようです。

 しかしながらシステム的な死であればなんとか変更があったシステムに適用させたり、プラットフォームを変えることによって死は回避できるのかもしれません。



2nd.人から忘れられる精神的な死



 次に、人の記憶から忘れられて事実上「死んでいる」状態と同義な状態になることが思いつきます。

 自身が生きていてそして誰かが覚えていれば「生きている」という状態が自分以外の観測者によって確定するのですが、この観測者の記憶から存在が抜け落ちると「誰も知らない」社会的には死んでいる状態になるのではと考えます。

 自分ひとりのVR空間で誰にも観測されず、誰にも合わず、「存在はしている」のでしょうが果たして生きていると言っても良いものなのでしょうか?

 筆者は考えてしまいます。



3rd.データがなくなる物理的な死



 データが消える=VRでの物理的な死

 という等式を考えました。

 自分の所有しているデータが消えるということはVRでの自身の死なのではと考えます。データを命に見立ててそれが消えたら「死」というステータスになるという考え方です。

 あと数百年もすれば実態の無いデータが「命」の役割を担う時が来るのでしょうか?

 それともデータが「命」と同価値になる時代がくるのでしょうか?未来への興味は枯れることを知りませんが、時間の流れは一定なので大人しく待つとします_(:3」∠)_



fin.総括


 では今回の総括として「VRでの死は物理・精神・システム的な3つに分類することができるのではないか」という感じです。

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