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【生死】『グラン・トリノ』から『オットー』まで〜命の価値をつなぐ「蜘蛛の糸」

どうも、上海から来ました悪い猫です。

適当にTwitterをしていたら、いつのまにかモテの仕組みを語るプチアルファとして注目されるようになりました。昔はナンパをして腕を磨いていましたが、最近はすっかり丸くなりパートナーと一途なゆるふわな婚姻生活を送っております。

無料ノートです。

さて、地球というのはなんとも美しい場所だ。

日本のように自然を自然のまま保護する文化のある国は、その姿が遺憾無く残されている。日本全土19万キロを走破した若きライダーの目は数々の絶景を捉えていた。

さぞ、充実した人生を送っていることだろう。

サラリーマンを淡々と過ごす我々にとって、その熱情も若さも経験も羨ましい限りである。こんな人生は何周しても物足りないかもしれない。日本一周の旅の思い出は老いた時にスルメのようにじっくり噛みながら何度も回想されていくだろう。

そう感じるかもしれない。

ところが、昨年、このライダーは日本一周の旅を終え、その終点として自らの命を経った。日本の美しすぎる数々の絶景も命を繋ぎ止めるには「細すぎる糸」だったようである。

我々は絶句した。果たして人の魂というものは、どんなもので救済できるだろうかと。

高ストレス競争の中、マウントに勝つだけが正義の現代社会、宗教観も道徳も多様性の元にブレブレな現代社会、人生の意義を見つけることの方が難しい。

若い多感な年齢なら特にそうだ。自殺を考えたことがない人の方が珍しいこれは他人事とは思えない。

我々も彼の同志として、そんな終着点を見つけてしまうのだろうか?自殺を少しでも考えたことがある我々は、多かれ少なかれ、全員「死に損ない」ではないか?

綺麗事はいつも綺麗事だった。

道理はいつも簡単だ。このYoutube動画を見て欲しい。

命の価値というものは不変だという。

辛いことがあってもその価値は変わらないし、楽しいことがあってもその価値は変わらない。と教授は学生たちに諭した。そうだ。悲しいことがあっても、別に命の価値が下がるわけではない。大切にして生きよう。

全くその通りである。

しかし、この言葉さえも以下の名言とは完全に矛盾する:

「死は或は泰山より重く、或は鴻毛より軽し」

司馬遷‐報任少卿書

つまり、人間の死というものは、時には山のように重いものになるし、鳥の羽のように軽くなってしまうこともある。

人間の命の価値には違いがある。時と場合によっては「無駄な死」になってしまうこともある。そんな言葉が歴史家の司馬遷の口から出ている。何とも無慈悲な言葉だ。

本当に無慈悲だ。単なる露悪なのだろうか。

そうでもない。

では、綺麗事なしに問いかけたい:若きライダーの死から一年経ったが、我々はまだこの事件を語っているのだろうか?では、りゅうちぇるの死は?三浦春馬の死は?その他、もう忘れてしまった自殺はどうだろうか?

SNSの情報更新は早い。

誰かの死でさえ一時的なコンテンツに過ぎない。情報過剰の世界では何かを訴える目的での死には何の意味もない。

人間は二度死ぬ、一度目は肉体の死、二度目は記憶の死とは言われる。それでも長生きしそうだと感じたことはない。時間は忘却という二度目の死を無慈悲にも簡単に与えてくる、

わずか、少しの時間で十分だ。

別のバズツイートが生まれるまでのわずかな時間だ。

そうだ、命はこれほどまでに「軽い」、

コンテンツとして一時的に消費され、その後、誰も思い出せなくなる。きっと私が死んだ時も同じだろう。そこまで有名人でなければ、コンテンツとして消費される資格もない。

命はこれほどまでに「軽い」、

むしろ「軽い」からこそ、我々は死んではいけないのかもしれない。知らない誰は、自分の代わりに自分の命に価値を装飾できないからだ。

イーストウッドか?トムハンクスか?

「死」と「他者」について考える映画に『オットーという男』がある。

オットーという男 A MAN CALLED OTTO

あらすじ:

オットーは町内イチの嫌われ者でいつもご機嫌斜め。曲がったことが大っ嫌いで、近所を毎日パトロール、ルールを守らない人には説教三昧、挨拶をされても仏頂面、野良猫には八つ当たり、なんとも面倒で近寄りがたい…。それが《オットーという男》。

そんな彼が人知れず抱えていた孤独。

最愛の妻に先立たれ、仕事もなくした彼は、自らの人生にピリオドを打とうとする。しかし、向かいの家に越してきた家族に邪魔され、死にたくても死ねない。それも一度じゃなく二度、三度も…。世間知らずだが、陽気で人懐っこく、お節介な奥さんマリソルは、オットーとは真逆な性格。小さい娘たちの子守や苦手な運転をオットーに平気で頼んでくる。この迷惑一家の出現により “自ら人生をあきらめようとしていた男”の人生は一変していく――。

https://www.sonypictures.jp/he/11330696

原作はスウェーデンの小説だが、あらすじを読んだ時「頑固な保守男が隣に引っ越してきた移民とごちゃごちゃ絡んでいくうちに心を開いていく」ストーリーに見覚えがあると感じるだろう。

そうだ、2008年のイーストウッドの『グラン・トリノ』を思い出す。これは、トム・ハンクス版二番煎じではないかと最初は疑った。

しかし、開幕で違った。

この主人公は最初からゴリゴリ死ぬ気で計画していた。燻し銀のイーストウッド演じるウォルトとは違い、彼は自分が全てを失った人間だと確信して、死のうとしているが、共同体で他人の助けをしているうちに「自分の価値」に気がついて「他人のために生きよう」と決断し、人生最期のリア充を過ごしていくという内容だった。

一方、イースト・ウッドの演じるウォルトはどうだろうか。
(ネタバレ注意)


ウォルトはどちらかと言えば「他人のために死のう」と覚悟して、ギャングと対峙して実際に死ぬ内容になるわけだ。

この二人は対照的であった。

他者と関わったために「死のうとしたのが生きるオットー」「ダラダラ生きてたのが死に場所を見つけたウォルト」。

この両者は完全に対比していた。どちらも映画のヒット作だ。なぜ、完全に違う行動を取っている主人公に観客は同じ共感を持つだろうか。

人生と死とは複雑な問題なのである。生きること選ぶか死を選ぶか、最終的に何を選ぶかは問題ではないのだ。どのように命を使うかの問題でしかないのかもしれなかった。

その命に価値があると実感できれば、価値のある死も選べるし価値のある生も選べるのだ。逆に、その命に価値の実感がなければ、価値のない死の恐怖で縛られるし、価値のない生き方に抑圧されることもありうるのだ。

生きるも死ぬも「他者にとっての価値」が欲しいのが人間だ。

猫は誰も見えないところで死ぬ。

野良猫の死骸は人目のつかない場所にいる。

野良猫は死ぬと悟ると誰の目にもつかないところで死ぬという。その行動に「死ぬときは独りなんだな」と自己投影して、「人間も同じなのだな」と理解する人も多かった。

しかし、実際には猫は外敵から身を守るために引きこもっているだけというのだから、これは人間の自己陶酔かもしれない。

自己陶酔だからこそ示唆に富んでいる。

人間にとって「死ぬ」ことと「孤独」であることは切っても切り離せない。「悲劇な死」と「他者との隔離」との関係とは切っても切り離せない。死ぬかどうかの判断が必要な時、独りで旅に出るほど致命的なものもないのではないか?

周りに人間がいない場合、どのように自分の命の価値を再確認できるのか?独りで行動しないことが「命の価値をつなぐ蜘蛛の糸ではないか?」とそんな感じがしてくるものだ。

この男は銃乱射を計画していた。

「もう、どうにでもなれ」と思っていたその日の前夜、友達の家に泊まった。友達は何も言わなかった。ただ、一緒に過ごした。居場所を与えた。「ここにいてもよい」という「わずかな価値」を与えた。

そして、この男は銃乱射に踏み切れなかった。

「蜘蛛の糸」が効いたのだ。とにかく死にたいと思ったら、「他者にとって価値ある死に方か」どうかの判断も含めて、孤独で過ごしてはいけないのだ。

死と孤独とフリーレン

『葬送のフリーレン』というアニメが話題だ。

これは、魔王を倒した勇者一行が故郷に戻るところから始まる後日談ストーリーだ。10年の旅をした仲間の50年の時を経て、一人また一人亡くなっていく、残された長寿エルフのフリーレンは、魔王討伐勇者一行のリーダー勇者ヒンメルの死をきっかけに「人間と人生について理解しようとする」。

そして、自分がいかにヒンメルに大切にされていたかを徐々に思い出していく時空転生ストーリーだ。

なろう系創作、俺TUEEE系二次創作に皆が飽き飽きしてきたこのご時世で、人間が生きるとは死ぬとはということに向き合うアニメが絶賛されている。

結局、人間なんてそんなに強くないから、いつか死ぬことに向き合わなくてはいけないのだろう。フリーレンが第二の旅をする中で必ず今なき勇者の影が潜んでいる。

『葬送のフリーレン』
『葬送のフリーレン』


この小説の主人公は「フリーレン」ではなく、思い出の中の勇者「ヒンメル」だ。自分の死によって無愛想なエルフにわずかな「他者としての価値」を残したヒンメルが影の主人公なのだ。フリーレンの旅路の中でのすべての善行は勇者ヒンメルの倫理観を基準にしている。

人間は体は滅んでも文化ミームとして生きることができるのだ。

しかし、これは小説だ。

長寿すぎて時間の感覚がバグっているエルフだからこそ、暇つぶし感覚で一人の勇者のために思い出の旅に出るのだ。我々はエルフではない。魔王を倒した勇者でもない。

現実では死ねばすぐに皆から忘れられる存在だ。

生きている人間は、生きている人間にしか救われない。生きている人間は、生きている人間からしか価値をもらえないのだ。

日本の美しすぎる数々の絶景も命を繋ぎ止めるには「細すぎる糸」だった。どんな美しい思い出もオットーには妻の後追いの動力でしかなかった。

孤独は死へいざなう。
思い出だけでは不十分だ「今を生きている他者」が必要なのだ。

何とか命をつなぎとめるためには誰も孤独であってはいけないのかもしれない。「自分の命を使い切るか」の究極の選択は、自己責任で個人主義で独りでやるものではないのかもしれない。

今生きている人たちとのつながりを実感できる、それが「命をつなぐ蜘蛛の糸」だとそんな話がしたかった。

前回ノート:


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