【恋愛】「男の本命サイン」と「恋と愛の違い」:フロム『愛するということ』感想
どうも、魔都から来た悪い猫です。
適当にTwitterをしていたら、いつのまにかモテの仕組みを語るプチアルファとして注目されるようになりました。昔はナンパをして腕を磨いていましたが、最近はすっかり丸くなりパートナーと一途なゆるふわな恋愛をしており、仲良く未来設計を共に楽しんでおります。
「男の本命サインとは一体なんぞや?」と、悩めるセフレ沼の女性から発信された情報がTwitterで少しだけバズタグになりました。これが言いたいことは、基本的に「恋」と「愛」の違いなのではないかと思うわけですが、巷で恋愛、恋愛というから「なんだよそりゃ、区別なんてあんのかコラ」と混乱する方もたくさんいると思います。
女はナシと思った男には非常に残酷ですが、男というのも「結婚的にナシ」と思った女に対して非常に残酷な生き物ですね。
7年以上ダラダラ結婚せずに付き合った彼女を振って、半年で別の女と婚約するという事例がザラにあるわけです。その時にその女はすでにアラサーで婚活市場でも非常に不利な立場に立たされるわけです。
自由恋愛というのは遊びと人生計画を混ぜたように進みます。そこでは「恋」と「愛」の区別なんてしません。半端な夢の一欠片で不意に誰かを傷つけていくゲームです。そこが一番恐ろしいところであります。
今回は「権威主義人格」の提唱でお馴染みのエーリッヒ・フロムさんの分析を使って、欲張りにこの区別を一気に解決していきたいと思います。無料部分で全部終わっています。有料部分は、結局、本命サインはなんぞやという話ですが、無料の部分でおよそ察しはできると思います。
結論を言えば「愛とは相手を自分の人生の目的や責任に招き入れる」ことです。そして本命サインは「その責任感があるか」どうかを判断します。
恋(モテ)は商品交換
エーリッヒ・フロムは、崩壊した愛、すなわち現代の「恋愛」というのものは現代社会の世俗化された性愛というのは商品交換のようなものだと表現しています。そして、西欧社会ではそのような「偽りの愛」は崩壊しているものだと指摘します。
引用:エーリッヒ・フロム:『愛するということ』、鈴木昌訳
これは、私悪猫やナンパ師たちがひたすらツイッターでばら撒いている恋愛工学的な「モテ」の意味と一致します。女がよくやる美容や整形も同じです。
とにかく、自分の性価値を如何に高い値札をつけて「間抜けな消費者」に買ってもらい「娯楽」として性や関心をトレードすることを最終目的とするものです。しかし、それはただの「崩壊した愛」です。
ナンパのそうですが「虚構価値が高い男」を演出することで性関係を結ぶのが本質です。そういう意味では『僕は愛を証明しようと思う』で証明したのは愛は崩壊していたということだけなのです。
誰も愛を知っているかのように振る舞うが`、誰も愛とは何かを知らない知ろうとしない。なぜこんなことが起きるのか。(これは、神や道徳と切り離された現代では、我々はそれを語る言葉を持たなくなったとエーリッヒ・フロムは言うわけです。)
しかし、仕方ないとはいえ、この商品交換を原則に愛を理解する以上、我々は永遠に自分を商品として扱い商品として消費される運命から逃れることができなくなります。
性を商品として売る表象として、アムステルダムの赤線地区が有名ですね。ウインドウショーの中で女性の売春婦が陳列される光景です。現代は、性愛それ自体がこれの上位交換となっているにすぎません。
現在のマッチングアプリを見れば、自分らがアマゾン商品として陳列しているだけの存在だと気が付きます。ここがナンパ師の遊び場になるのは、そこには「モテ」しか存在しない以上の理由がないからです。
女は年齢や容姿で価値を判断する男を嫌い、男も年収や学歴で価値を判断してくる女を嫌うわけですが、これは、あらゆるものを商品交換として市場での価値を通じてしかみれなくなった現代人の成れの果てとも言えるかも知れません。
それに対して「愛がない」と嘆いているわけですが、では、愛とは何なのかについて誰も教えなくなった。そんな時代になったのです。
「愛」と間違いやすい「恋」(自由恋愛)の本質こそが「人間の商品化」だということを、誰もが理解しているけれど誰も語らないわけです。
商品化された「恋」とは?
恋というと非常に聞こえはいいですが、結局のところ、そこに「主体性」は実はありません。
「偽りの愛」=「恋」とは、なんとなく商品ウィンドウを眺めている消費者、権力者であり、責任の主体ではない状況のことを指しています。消費主義に毒された消費者のように、相手に高い価値を求めてその「モテ」に毒されて沼った人間ですね。
フロムから見れば、選別している力があるように見えて、実は、物々交換の一歯車として人間性が疎外された存在になっています。これは、完全に「モテ」を提供されて本能のまま下半身を濡らしているだけの魂のない人間です。
前回のノートで「愛の物語を提供される側」に回った方が何も考えずに沼っていくのも同じ仕組みです。
これが「モテ」という虚像でパッケージされた商品にパブロフの犬のように涎を垂れ流しながら反応していており、「自分はどうしたいのか」「何が欲しいのか」「相手に何を提供できるのか」何もわからず、
ただただ、価値が高そうでキラキラしたものを求めて追い求めている飛んで火に入る夏の虫に成り下がります。
引用:エーリッヒ・フロム:『愛するということ』、鈴木昌訳
また、たまたま「恋」が実っても、そこにあるのは「商品」を勝ち取った受け取る側の自分であるので、それを「愛」に昇格させるかどうかとか関係のない話になります。
若さ、美貌、年収、性格、我々は、パッケージ化された見た目の良さそうな「完成品」しか見えていないわけですから、他人に良い影響を与えてよりよく共に生きることなんて考えていません。
求めているのは一時的な「恋の気持ちの高揚」という「精神的な快楽」なわけです。快楽が目的ならばあらゆる経済消費に代替することが可能となります。
愛は「主体的」に相手の運命を背負う「責任」
他人から背負わされる責任はただの搾取ですが、自分から能動的に背負う他人への責任こそが自分の力を実感できる人生の意義なのです。
具体的に何が「愛」なのか、フロム同書で聖書を用いて面白い例えをしました。旧誓約書のヨナ記を引用しながら説明しています。
これはどういうことかといいますと、ヨナは自分が二ネべの人間が神の愛に値するかどうかをジャッジする立場が欲しいわけです。
自分だけがその者たちよりも神のルールを守る人間なので「価値が高い」というマウントを突き通すためでもあります。そうすれば、神に贔屓にされてより偉くなれる、なので、あえて他人を助けようとしない救済の機会を与えたくないのです。
今の言葉でいえば、道義的な優位性を確保するためですね。自分の方が二ネベの人間よりもマシな商品だという優位性を失いたくなかったのです。
自分は神の任務を放棄したにも関わらず、神は彼を愛し助けた。見捨てたわけではないこと理解して再びしぶしぶ二ネベに向かうわけですね。
引用:エーリッヒ・フロム:『愛するということ』、鈴木昌訳
人間の善性に対して責任を背負っている神とヨナが対比します。
一方は、自分だけ正しくて評価されればよくて、他人がより良き人間であることに責任を負おうとしません。一方、神は人間を創造したのと同時に、善性も創造したのですから、それに対して責任を負おうとするわけです。
これが「愛」であり「価値判断」ではないことの本質となります。人間はクソなのでノアの大洪水を起こして滅ぼしてしまえ、というのでは「愛」は存在しない状況だったのです。
健全な親がわが子の人格成長を志すように、愛は他人が成長することに対して責任を背負うことです。ここでは他人が望んだ良い結果になることに対して責任を負っています。
「自分への責任」=「自分への愛」
フロムは他人を愛すること以前に自分への愛を語っています。なかなか理解しづらい話ですよね。特に利己主義的な人は、他人を愛せないということが常識ですが、フロムがいうには、利己主義は自己愛ではありません。
自分を愛せる自己愛がある人間と他人を愛せる人間は同じでその愛の本質も同じということです。
引用:エーリッヒ・フロム:『愛するということ』、鈴木昌訳
いきなり「他人の成長に責任を負え」と言っても押し付けがましいし、混乱するわけですが、まず、「自分の成長に責任を負え」というと分かりやすいでしょう。
責任は予測不可能な物事を、予測可能なことに努力を通じて実現させることです。自分の成長への責任も同じです。
責任を「自分から背負う」と確かに苦労はしますが、人生が非常に豊かになれます。なぜなら、それが生きている力の実感となるわけです。ここでいう自己愛的な責任感はフロムの言葉を借りれば「生産性の表現」です。この世界で自分はいいものを作り出しているという実感です。
自分の力を通じて「未来」で起こりうるできごとを望ましい方向に変えられるわけですから、これが本来のエンパワーメントの意味となります。
「他責」=「自己虐待」=「自己嫌悪」
一方で、他責性のモンスターがたびたび社会に火をつけてはお騒がせしております。他責できる人間はまるで偉い人間のように見え、他責は一見すると自分を守っているようです。
実は、他責は自分自身に対して最大の侮辱しております。
「私のせいじゃない、全部他人のせい」というスタンスは、つまり、自分には「周りの環境やこの世界をよりよくする力がない」というメッセージを自分自身にぶつけているわけです。他責は他人を虐待しているように見えて、実は自分の人間力を虐待しています。
世界には自分を幸福にする力がない、自分も世界をよくする力がない。自分は無力で無意味であり、その自分を作った世界も社会も無力で無意味である、そういう負の憎悪情動が存在します。
そこで落ち込んで自己反省すればかわいい方ですが、中には拗らせて「ならば、自分も世界を焼き尽くしてしまえ。」と行動を起こすのが無差別殺傷の他責心理です。ここまで来ると病的な自己嫌悪と世界嫌悪となります。
世界そのものが自分に対してクソゲーをやらせている認識ですね。しかも、なぜか、誰かはそのクソゲーを簡単にクリアしているように見えてしまう。(実際、クリアする前の失敗や葛藤は何も認識できない。)
だから、能力も心も弱い人間ほど自制が効かないし世界に対してシニカルにしか見れなくなります。何もかも上手くいかない、うまく作り出している実感がない場合、人間はどんどん荒れていきます。
これは男性に限らず「男性だけ楽して出世して偉い」と感じる某女性界隈も同じルサンチマンを孕んでいることになります。個人で対抗できない構造的な不備を社会の本質と捉える感覚は、その構造の中で自分たちが「思い通りの結果を自分の行動を通じて達成できる」という認識を一掃をします。
これは、実は自己愛ではなく自己中心的な自虐精神の表れなのです。自己中心的な利己主義と「自分を愛することは違う」というフロムの意味はこれなのです。
引用:エーリッヒ・フロム:『愛するということ』、鈴木昌訳
上手くいかないことがあっても「厳しい状況だったが自分がこうすればもっと良い結果になった。」と自分に言い聞かせ、自分の責任として背負うのは弱い人間ではなく、自分自身の力を諦めていない、自分自身の成長を諦めない、自分自身を愛せる人間という意味なのです。
なぜ「謝れる人間の方が信頼できる」かは、自分の落ち度を理解していることによって、次は同じ困難にぶつかっても経験から解決できる人間というアピールにもなるからです。
「自分の今までの人生の過ちはすべて自分の責任だった」と認めることと、「未来の人生は自分の力にかかっており、自分の力で未来を切り開けること」と表裏一体です。
社会構造のせいにする限り「個人の生きるチカラ」は生まれません。
「生産していく実感」が人を強くする
よく非モテ男は風俗にいけばセックス要求は満たされるよねと言われ、それでは承認欲求が足りないとかで騒いでいますが、人間に必要なのは他者からの承認欲求ではありません。
自分からの承認:つまり「世界に何かを有意義なものを与えている実感」なのです。
婚姻や恋愛関係というのは、異性に対して与えてきたものが、その実感を強化するという話になります。決して異性から承認を貰うことが「愛」の本質ではありません。
もちろん、ナンパ術だろうがオシャレだろうが、高い商品だという評価が自分の努力によって獲得したものであるならば、そこに意義は少しあるでしょう。
しかし、それは所詮、自己愛的な「モテの獲得」の領域を出ません。他人に対する愛は、また別のところにあります。それは、その人の未来に対しても背負っていくということになります。
で、本命サインとはなんぞや?
前置きが長くなりましたが、そもそも男の本命サインを知りたくて集まった人たちも多いわけですが、当たり前の話に戻していきたいと思います。ここからは「重い」話になります。
再度、掲載しますが、有料部分は、本命サインはなんぞやという話ですが、今までの無料の部分でおよそ察しはできると思います。
ここから先は
¥ 250
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?