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山月記再読-李徴のやらかしを考える:導入編

  めちゃくちゃ唐突に私事だが、最近青空文庫にハマっている。今やっている仕事の都合上定期的に確認するのだが、元々の活字好きな性分もあってどハマりしてしまった。

  青空文庫はざっくり説明すれば、著作権が切れた日本の文学作品を片っ端から公開しているオンライン図書館である。

  美味しんぼの海原雄山の元ネタになった北大路魯山人はデパートでお偉いさんと解釈違いで怒鳴り合うやべー人だったとか、日本で初めて人工雪を作った中谷宇吉郎が世界を飛び回った見聞記録とか、フランスで牢屋にぶち込まれた活動家の大杉栄の海外留置所レポ(ぶち込まれた側として)とか、面白い読み物の宝庫である。

  アーサー・コナン・ドイルや江戸川乱歩の作品も揃っているので、名探偵コナン好きを極めたあなたにもオススメよ。青山先生はこの辺めっちゃ読んでたみたいだし。

また会ったね山月記

  そんな感じで青空文庫をうろちょろしていたら、ついに再会してしまった。

  中島敦、才能を発揮しながら30代のうちに亡くなった作家の代表作の一つである。当時は漢文調の文章にひーこら言いつつも楽しく読んだ記憶がある。山月記は高校生の現代文でもフツーに採択されているらしい。ソースは現役高校生&高校出てそんな経ってない社会人のフォロワー。

  この山月記、やたらめったら格調高い文章だし漢字多いし敬遠されやすそうだが、肌感覚としてはそうでもない。人が理不尽に虎になるわ、台詞回しが妙に印象に残るわで割と愛されてる印象である。だいたいこの2つのセリフが代表的だろう。まずは1つ目。

「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

  主人公の袁サン(表記が対応しきれなかった)が草むらの中の旧友に初めて声をかけた時の台詞である。この時李徴本人の姿は完全に虎である。虎になった後の李徴は徐々に理性を消失していた。袁サンと出会った時には、人格を保てるのはせいぜい1日数時間程度しかないところまで来ていた。残りの時間は虎として思う存分暴れているが、人格が戻ってきた時にはその記憶はないらしい。我に返ったら兎が血まみれ、自分の口も血でべっとりとかシンプルに嫌すぎる。

  ジキルとハイドを思い出す話だよね。あの話におけるハイド氏がまんま李徴にとっての虎の人格的なものになってる。李徴がお友達と会った時にはもう末期だったらしい。この山月記の話は李徴の人としての最後のやり取りに焦点が当てられている。

  個人的にはこのセリフ、声に出して読みたい日本語の中でも上位にある。

「その声は、我が最推し、花たんではないか?」

ご本人様が参加している合唱系歌ってみた聞く度にこうなってます。意外と身近だったわ。

  もうひとつ人気なのが「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という台詞。これはあんまり実生活では使いません。この台詞は己のアイデンティティは数字とか地位では担保してくれない、そんな生々しい事実を強く示すものに感じる。

  自分が何者なのか、という問いかけは人によってはディープにハマりこんでしまう問題である。自分なりの回答を先に示すと、「お前はお前でしかないし、俺は俺でしかねーよ」となる。文字に起こすとつくづく暴言である。

  これで終わらせると身も蓋もないので、もうちょい掘り下げよう。「自分が何者か」ということを定義付ける時に(精神衛生考えたらこれにあんま向き合っちゃいけないとも思うけど)、いわゆる客観的な相対評価を基にするのはあまりにも危険に感じる。

  平易に言えば、人から見たら自分はどう見えるのかってことをそこの基準にするのはめちゃくちゃリスキーである。

  該当するものは学歴、社会的立場、フォロワー数etc....キリがない。

  特に学歴はあれば変な振りかざし方をする人がいるし、なければないでコンプレックスで人生棒に振るパターンもある。ただ、学歴に関してはそれでも必要になる理由が相応にあると感じている。学歴はモノサシとしてある程度有能だが万能ではない。これもまた別記事で書いてみたい。

  話を戻そう。さっき挙げたものはあくまで外からの要因であり、変動するものである。学歴は学校のレベルとイメージが崩れれば扱いが変わる。ある所から上のレベルの学校に関してはそんなことはあまりないが、「〇〇大学出てその程度かよ」みたいなことをぶつけてくる人は世の中ゴロゴロいる。なんなら私もぶつけたしぶつけられた。コンプレックスは人に力を与えるのだ、主にアカン方向へ。

社会的立場も何かの拍子で一撃で崩れる時は崩れる。不祥事やら何やらもあるが、それ以前に病気や怪我などでそこを離れざるを得なくなった時点で吹き飛ぶ脆いものだ。これどこかで方丈記の話もしたくなってきたな。

  次にフォロワー数、これは非常にシンプルである。何かの拍子に炎上すれば一発アウト。気を付ければいいとは言うものの、気を付けるだけで済めば法律も警察も要らない。どこかで「フォロワー数は銃口の数」なんて言葉を聞いたことがある。銃口の数にアイデンティティを預けるのはちょっと考えものである。ただ、それだけ銃口が向くような関心を得られていることは純粋にすごい。

  ここで李徴に目を向けよう。虎になる彼は科挙(※1300年間ぐらい続いてた中国の公務員試験。最終的には人類史で最もエグい就職試験になった。受かるまで数十年とかザラ)に若くしてあっさりと合格し、エリート役人として出世街道を爆走していた超ハイスペックマンである。

  日本で言えば鼻くそほじりながら東大にノー勉であっさり受かってそのまま財務省とか外務省とか三菱商事とかに入社してバリバリ働いてたスーパーマンだと思ってくれればいい。

  妻子にも恵まれ、世間からはエリート扱い、老後の安泰も間違いなし。人が欲しがるものなんて大概手に入った男はアイデンティティの置き方を間違えたばっかりに虎になってしまったのだ。次回はこの天才エリートが何をどう間違えたのかを掘り下げて考察する。

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