時間/こがらし

 この記事を読んで振り返れば、私にとっての特別な表現方法は、書くことだと感じる。読書感想文や小論文、SFから詩まで、色々な言葉を書いたり書かされたりしてきた。それらの記憶の中で最も鮮やか、かつ私の中での書くことの意味を決定的に変えてしまった、書道教室での出来事を辿りたい。


半紙という場で、何が起こっていたのか?

小学二年生の私は何事も、はやいことが至上だと考えていた。足は速い方が良い、作文は一番に書き終えて教卓に出しに行くのがカッコいい。手を挙げるのが早い人から、先生が当ててくれる。はやいは頑張り、有能の証。そんな私を揺るがしたのが、書道教室での最初の稽古だった。

フレームのない眼鏡を掛けた痩身の中年女性が、木造一軒家の自宅で開いていた書道教室。うっすら埃に覆われた東南アジアの置物と「笑うせぇるすまん」の漫画が並ぶ二階のかびくさい一室に、日常を間違えたような不穏な雰囲気を察知した。それでも私は、墨で少しべたつく畳にちんまり正座し、手際よく「こがらし」と書き上げた。自分は丁寧さを演出する仕方を知っていると、小賢しい小学生は思い込んでいた。私が満足げに持ってきた半紙を、先生は朱色の墨で真っ赤にした。

それは頑張っていない証であり、演出はお見通しだった。私は混乱した。

書き直そうと筆を手に取った時、部屋の隅で何かを添削していた先生がふいに立ち上がり近付いてきた。彼女は私の後ろに回った。今度は何が始まるのかと、私は緊張し身構える。師走の弱い夕日が満ちる中、彼女はそっと、私が持っていた筆の軸の上方に手を添えた。

「はいじゃあ、力を抜いて」

そして彼女は私の筆を、そして私の筆を通して私自身を、動かし始めた。
横の線は素早く、
縦の線は息を吐きながらゆっくり、
はねるときは息を止めて一気に。
先生が操っていたのは、私や私の筆だけではない。書くことの呼吸により、半紙の上で時間を操っているように思えた。
筆を下ろす瞬間に既に先生には「こがらし」の完成図という未来が半紙の場に見えている。同時に実際に筆から流れだした線という現在に合わせ、その未来は刻々と変わっていく。過去と現在と未来が半紙の場では同時に存在するため、時間を区切ることは最早意味を持たない。そんな半紙の場で「はやく書いてしまおう」という、はやる気持ち、一直線の時間に流される気持ちは頑張りではなく不要なものだ。それまで、はやさにこだわる日常を送っていた私は時間に操られていた。先生の筆の動きに身を任せ、「こがらし」を半紙という場に書く。一直線ではない時間の流れが、書くことで確かに現れると、そのとき直観した。

初めての稽古から帰った私は、四枚の「こがらし」を兄に見せた。その中には先生と書いた一枚もあった。兄はその一枚を指さし「何かこれだけ妙に上手だけど?」
先生が私の筆の上の方を持って、一緒に書いてくれたんだと私は説明した。私が書いたものでもある。じゃあそれはみずきじゃなくて、先生が書いたってことじゃんと兄。みずきもはやく上手になると良いね、と傍で会話を聞いていた母。

筆を動かしていたのは、誰だったのか?

二十歳になった私にも、引き続き難しい問題だ。筆を通し先生と私がひと続きになったからこそ、時間が伸び縮みする感覚をおぼえた。先生と私がひと続きになって書いたのなら部分的に私が書いたという理解で良いのではと思いつつ、何かを語り落としている気がする。

この違和感が、そもそも私の筆をつき動かしていた先生をつき動かしていた力は、先生のものだったのかという問いとして形になった時、ふと現代文の授業で読まされた文章の一節が思い出された。

Not I, not I, but the wind that blows through me! 
(私ではない、私ではなく、私を通り抜けるあの風である!)

誰がどんな流れで言っていたんだっけ。現代文Bの教科書を久しぶりに引っ繰り返すとそれは中沢新一による「純粋な自然の贈与」(探したらここから全文読めました)で引用されていた、D.H.ロレンスという詩人の言葉だと分かった。

中沢の文章はインディアン(アメリカ先住民)とピューリタンの邂逅から始まる。ピューリタンから見れば、インディアンは浪費家だった。親戚や友人、ピューリタンたちにも莫大な贈り物を続け、所有や貯蓄は一切しない。この行動の根底には「贈り物は、常に動き続ける必要がある」というインディアンの思考法がある。贈り物とそれに宿る「贈与の霊」が常に循環することで、世界が物質的に生き生きしていく。だからインディアンから見れば贈り物を所有し貯蓄し、贈与の連鎖と「贈与の霊」の循環を止めるピューリタンは、まことに不吉の前兆だった。

仏陀からハイデガーまで、贈与に関連する色々な思想を挙げつつ、「すべての富は、物質性をもたない『無』の領域から『有』の世界に、贈り物としてやってくる」という思考が通底しているのでは、と中沢は述べる。現代では人々に消費される思想や芸術も、かつては意味を持たない『無』の領域からの、あるいは自然からの、贈与だった。ここで "Not I, not I…"が登場する。

このときロレンスは、芸術的創造の本質を、贈与としてとらえている。「あの風」が私の言葉を語る身体を通過していった。そのとき言葉の身体に残された痕跡が、あれだ。作品を書いたのは、私などではない。あの作品が、人間への価値ある贈り物となりえているとするならば、それはあれが、「あの風」による贈り物であるためだ。

結局のところ、書くって何なのか?

この後さらに、"Not I, not I Lawrance"でググったら「純粋な自然の贈与」に載っていない続きを発見した。この続きを三つの問い、つまり「半紙という場で、何が起こっていたのか」「筆を動かしていたのは、誰だったのか」「結局のところ、書くって何なのか」を繋げる手掛かりにしたい。

Not I, not I, but the wind that blows through me! A fine wind is blowing the new direction of time. 
(私ではない、私ではなく、私を吹き抜ける風だ!そよ風が、時間の新たな方向へと吹きつけている

D.H.Lawrance

先生の筆を駆動した力、筆を通して私の身体に伝わった力は、ロレンスの描写する「そよ風」だった。「そよ風」は、物質性をもたない『無』の領域から、『有』の世界へと富を送り出す力である。この力が、時間を新たな方向へと向かわせる。過去と現在と未来が、半紙の場で入れ替わり立ち代わり現れ、そういった時間の区切り方さえ揺らぐような感覚に陥った。この感覚は、時間を新たな方向へと絶えず向かわせる「そよ風」の力の作用に違いない。これは、半紙という場のみで起こる現象ではない。wordという場、白いA4一枚という場、iPhoneのメモ機能という場。どんな場であれ「そよ風」が運ぶ、日常と異なる時間の流れに身を任せて現れる言葉、『無』の領域からやってくる贈与としての言葉が、書くときの言葉だ。

はやいことが必ずしも良いわけないと、気付いた小学二年生から今まで、私は相変わらず時間に操られてきた。センター試験では早く解き終えて見直しをするのが良い、LINEやSlackの返信は早い方が良い。インターンも就活も、早めに動くと良いらしい。退屈しないし、何より安心する。その安心が、漠然とした不安に裏打ちされていると気付くのは難しくない。頑張っている人、良い人、それでいて周りと違う「私である」ことの価値を押し出し差別化を図らないと認めてもらえないのでは、生きていけないのでは。

そんな日常の中で書くときだけ、加速していく時間から抜け出せる。書くときだけ富が、充溢した無からの贈与としてやってくる。贈り物は短い詩だったり、面白そうなレポートのテーマだったり、無意味な回文だったりする。「私である」の精神が溢れる現代で、書くことで現れる言葉だけは紛れもなく贈与であると私は忘れないでいよう。「私ではない、私ではなく」の精神を持つ限り書くことによって現れる言葉は、文字通り富として現れ続けるはずだ。

傲りであると知りながら、想像せずにはいられない。『無』から『有』へと向かう力が至らない私の身体を通過した、その痕跡である言葉。それを誰かが、価値ある贈与として受け取る日がくる。その人は何年も経ってから遠い場所で再び私の言葉をそっと循環させるのだ。12年前の弱い夕日の中、先生と私を通り抜けた、そよ風ならぬ「こがらし」が今まさに時間を新たな方向へと向かわせているように。


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