「猫を棄てる 父親について語るとき」を読んで

この文章を初めて文藝春秋で読んだとき、思わず自分の過去に思いを馳せ、僕たちが村上春樹さんから受け取ったものの大きさを知り、思わず目を瞑ってしまいました。
そして、今回改めて独立した書籍で読み直し、あらゆる意味で大変な今の時期に、この文章がまた一つ大きな意味を持って僕を捉え、目眩すら覚えたような気がします。

この本に書かれていることは全て村上さんの個人的な体験。父とそれに纏わる思い出ー特に戦争についてーです。
村上さんは丁寧に丁寧にお父様の過去の足取りと体験を追っていきます。ただ、ここには正しい情報だけでは無く、「村上さんはこういうふうに覚えていた」「こう勘違いしていた」と言うことも書かれています。
そういった個人の「思い違い」「誤解」があるからこそ、より実感を持って村上さんが持つお父様のへの当時の複雑な思い、そしてどうやってその気持ちがひとまずの解消をしたのかが伝わりました。
間違い、勘違い、すれ違い、そして大きな流れに飲み込まれてしまう。
ここに書かれているのは平凡で、そして誰とも変わらない人間です。
だからこそ、村上さんもお父様も僕たちと何も変わらないのだと改めて感じます。

ただ、村上さんのお父様は戦争というものを経験し、その影にずっと付き纏われることになります。そしてその影の一部を村上さんは必然として継承します。良くも悪くも。

ただの平凡な人間が戦争という大きな災禍に巻き込まれてしまうこと。
それがどんなふうに人間の思考や行動を捻じ曲げてしまうのか、それがどんなに辛く悲しく、その後一生に渡って影を落とすことになるのか。僕たちは村上さんの目と「想像」を通して知る事になります。

村上さんの文章の力で、僕は一度村上さんの思考をくぐり抜けたような感覚を持ちました。実際にお父様の通ってきた、お父様しか知らなかった筈の道筋を、村上さんと一緒に体験していったような気持ちです。
そして、だからこそ、最後の村上さんの言葉が身体に染み渡る事になります。


僕らが交換可能な人間である事。いずれ集合的な何かに置き換えられ消え去ってしまうこと。しかしそこには個々の思いがあり、受け継いでいく責務があること。


今回の病原菌の騒ぎで、「副次的に」というべきか、僕は否が応にも身の回りにあるシステムの強固さ、歪さ、目の前に立ちはだかった時の無力感を感じたような気がしました。
その強固なシステムが、僕たちを戦争に、争いに向かわせたら。
勿論僕はそんな事はしたくないのですが、個人の意志なんて無関係に、大きな流れに飲み込まれてしまう筈です。
そんな歪なシステムを否定していくこと、そして次の世代に引き継いでいくこと。静かに身体に染み渡ります。

文藝春秋への初掲載から、正に時間を超えて今単行本化されたことにより、村上さんの言葉に、今まで気付かなかった新たな意味に気付かせてもらえる。
時間を飛び越えて、人の心に訴える。これこそが文章の、本の持つ力なのだと改めて感じもしました。

そして、あくまで個人的にではありますが、最近村上さんは僕たちに対しても「継承」を行って下さろうとしているのでは無いかと感じることがあります。

今回の「猫を棄てる 父親について語る時」で書いてくださったこと、そしてラジオで話してくださること、ランナーとして、職業としての小説家の心を書いてくださる事、各賞を受賞された時にするスピーチ。
どれもこれも村上さんが僕たちに「良き物語」として継承を行っているのでは無いかと何となく感じるのです。
勿論村上さんは小説家であり、多くは小説によってそれは行われてきました。
ただ、おそらく良き小説(物語)というものは、それが出来上がり、そして正しく受け取るまでにとても長い時間がかかるーそうであるからこそ小説という物はとても素晴らしいものであると思っていますーものかと思います。
そして、幸か不幸か、僕らの持つ時間には限りがあります。
お互いが物語を正しく渡し渡されている事が分かったが故の、直接の言葉の受け渡しに何となく感じてしまうのです。
僕たちは村上さんがお父様から引き継いだ物を、別の形で受け取ったのだと思います。


誰もが何を信じていいか分かりづらくなっている今この時に、村上さんの多くの作品が在ることに心から感謝をしております。世界が大変である時こそ、何かに置き換えられた物語というものが僕たちにそっと寄り添ってくれます。
悪しき物語に対抗する良き物語を、世に少しでも残せますように。
僕らが世の正しい物語をそのままの形で後世に残せるように。
それは願いであり、そして責務です。
村上さんの文章と、高妍さんの挿絵を載せたこの本が、僕の想像力を豊かに刺激し、過去を思い起こさせ、そしてそんな事を考えさせててくれました。

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