幸福の王子、オスカーワイルド、光文社古典新訳文庫

幸福の王子
・ドリアングレイの肖像を書いたワイルドの作とは思えないほど、倫理観に満ち溢れた作品。しかし、貧しい人に有限の富を分け与えるだけでは限界があることもまた明白であった。この世の一番の謎は貧しさがあること、と幸福の王子は言ったが、自然界において飢えは当たり前にあるものなので、どちらかというと富があることがこの世の謎のように感じる。

・The Nightingale and the Rose
ナイチンゲールが命を賭して与えた真紅の薔薇を、役に立たないと投げ捨てる恋する哲学青年の話。ナイチンゲールがかわいそう、、

・The Selfish Giant
子どもに意地悪だった大男が、春を呼んでくれていたのは子どもたちだったと悟り、改心する話。わかりなすく綺麗な構成。

・The Devoted Friend
非対称な友情を押し付ける粉屋と、粉屋を信じ込んで最後には死んでしまう花屋の寓意的な話。

・非凡なる打ち上げ花火
高慢ちきな、しゃべる打ち上げ花火の話。一人でしゃべりつづけ、誰にも見られずに爆発して息を引き取る。

『柘榴の家』に収められている短編集
・The Young King
美術品、装飾品が大好きな若い王子は、夢のお告げでそれらの品々が人々の苦しみによって支えられており、貧富の差がこの世の現実としてあることを知る。そして、簡素な衣に身を包み戴冠式に臨むと、神がその王子を王と認めるしるしを現した、という寓話。

・The Birthday of the Infanta
侏儒の踊りを面白がる王女、しかし、侏儒は初めて自らの姿を鏡に見てショックで絶命するという話。差別的、と簡単に断じることはできまい。インファンタの「罪のなさ」、ただ純粋に異形の者を面白がる様が、サロメの純粋さを感じさせもした。

・The fisherman and his soul
人魚に恋した漁師が、人魚と共に暮らすために魂を体から切り離す方法を魔女から教わる。魂とは、影であり、影を小刀で切り離すことで体と魂が分離する。魂は年に一度、漁師と会う約束を交わす。魂が必要になるかもしれないから。このあたり、ゲド戦記を思わせる。

・The Star-Child
星から落ちてきたと思われていた美少年。しかし、母と名乗る女乞食に酷い言葉を投げかけた少年は、醜い姿へと変貌する。醜い態度を取ることで姿が醜くなる描写が、ドリアングレイの肖像を思わせる(ドリアングレイの場合は、絵が醜くなっていったが)。

・解説より
確かに、この童話集はドリアングレイやサロメのような美的快楽と欲望が押し出された作品群と比べて、倫理観に満ちていて、異色の作品群のように思われる。しかしながら、これに先立ってワイルドに2児の男の子が生まれていることを考えると、子どもに読み聞かせるために書いたと考えるのが妥当である。2児のうち弟のヴィヴィアンは、『オスカーワイルドの息子』を著しているが、幼き頃父ワイルドが『身勝手な大男』を朗読してくれたことを書いている。

幸福の王子に見られるように、親切を施すことで自らの存在が断たれてしまうような、過剰な道徳に違和感を覚えることも事実である。わかりやすいのは身勝手な大男。「思いやり」に対置されるのは「身勝手さ」だが、ここに時間の経過という装置が導入されることで、結局大男は死ぬことになる。「思いやり」とは、個人が社会に対して、命を賭して捧げるものであり、幸福な王子の時間の流れの中で「思いやり」を発揮することで死んでいく。しかし、ナイチンゲールに見られるように、「思いやり」は冷徹に、社会から撥ね付けられることだってある。忠実な友と、非凡なる打ち上げ花火においては、個人の献身は社会にとって何の意味もない。マンデヴィルが書いた『蜂の寓話』の副題である、「私悪すなわち公益」は、アダムスミス的な個人の経済活動が社会の経済に利するという楽観的な「身勝手」=「思いやり」という定式を打ち出したが、利己と利他を同一視することが19世紀末イギリスの貧困の状況を見るに浅はかであることは明白だった。忠実な友においては、無意味な思いやりが、非凡なる打ち上げ花火においては、身勝手な思いやりが、こうした利己=利他という定式に反発するかのように扱われている。
柘榴の家においては、庭園と迷宮が対置されており、民俗学的に再解釈された神秘の光により、若い王は庭園に戻れたし、人魚に恋した漁師は神秘の光を与えられず迷宮の中で死んだ。

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