文学とは何か、加藤周一、角川ソフィア文庫

・文学とは何か、というのは抽象度の高い問いだが、具体的に何が文学で何が文学でないかはある程度共通の理解がありそうだ。例えば、谷崎潤一郎の小説は文学だが、新聞の社説や六法全書は文学ではない。これに対して、客観的に文学とは何かというアプローチを取りたい(これは、positivistなアプローチであり、今日的に正しいかはわからないと思われる

・文学とは何であったか、については、比較的多くの人の意見が一致しやすい(例えば、エリザベス朝文学の最高傑作がハムレットであった、など)が、文学が何であるかという問いに共通の解を見出すのはさらに難しい。そして、「文学とは何であるか」が、「文学とは何であったか」を決定するので、意見の一致のしやすさはいずれも程度の差に過ぎないのである。

・文学とは作者の体験を記したものだが、日記的な記述がそのまま文学になるわけではない。この体験の処理のされ方が、文学を規定しているが、さてそれが何であるかは重要な問いである。端的に言うと、科学的体験が特殊な体験の抽象化と普遍化(同じ条件を整えれば必ず反復される経験)を行うのに対し、文学者は特殊な体験を特殊かつ具体的なもの(一般化されない特殊性と反復されない一回性)として捉える。そして、一回性の現象は反復されないので生活する上では役に立たないが、人生にとって決定的な意味を持つ。銀器を与えたのは私だと僧侶が証言することは一回限りの偶然的な現象だが、銀器を盗んだ男にとっては決定的な意味があり、人生を変えた瞬間だったはず。

・言葉には意味と響きがあり、詩は作者が受け取った感じ(例えば海の感じ)を実体化するために意味と響きを使って表現するが、散文は響きにはフォーカスせず意味のみを用いて表現する。

・言葉はフロベールが目指したように客観的であることはできない。あらゆる言葉が、世界と作者との関わりを限定する。「パリの人民大衆が第二帝政を倒した」と書くか、「不遜の輩が暴動を起こした」と書くかで、作者と世界の関わり方が決まる。それにより、あらゆる作者は世界と自分の関係性を示す責任があると言える。

・文学は特殊で一回性のものを表現するが、その特殊性が普遍性に高められることが文学の価値であり、逆にある作品の特殊性が特殊性のまま何にも昇華されない程度であれば、その文学の価値は低いと言える。

・何が美しいと感じるかは場所や時代によっても変わる。しかし、何かを美しいと感じる人間の心の働きは、共通している。(しかし、これも言葉による概念の切り分けの仕方が影響していると思うが、この主張には頷けるところは確かにある。)そして、流行の跡を追って何が美しいかの変化を調べるのが美術史であり、時代によって変わらない不易の美とその原則を追求するのが美学である。かつ、この二つが完全に分離することはない。一流の芸術作品は不易の美を含むからこそ流行となるのであり、かつ、流行に左右されない抽象的な美を編み出しても何の役にも立たぬし、そんなものは存在しない。(イデア論みたい

・封建的社会は自然発生的なつながりである「人情」に人と人との関係性の基礎を置き、近代社会は個と個の理性的な繋がりである「友愛」や「連帯感」に根拠を置く。この二つは質的に違うものなので、一方から他方へ移行するということが起きない。(しかし、近代社会もCoersionにより成立していると見ることもできるし、友愛や連帯感だけが根拠ではないと思うが、上記の主張には頷けるところもある

・完全に詩的な作者、あるいは完全に散文的な作者というものは存在せず、実際には両方の要素を混ぜもつのである。しかし、思考を進める上で、純粋に詩的なものを考えてみることは無駄ではない。その上で助けになるのは、フランス象徴主義で純粋詩を目指したボードレール、マラルメ、ヴァレリーあたりの詩人。

・ドガはマラルメに、昨晩頭の中に観念(イデー)が浮かんだのに、どうしても詩が書けなかったと言った。これに対するマラルメの返答は「詩は言葉で書くものだ」。この返答は有名だが、つまり作者の頭の中に浮かんだ言葉になる前の観念(そんなものが可能ならば!)を、正確に言葉に映す技術が詩作である、と言っている。

・ラテン系の文体の中でも、キケロは論理的な構成、豊富な比喩、リズムによって魅惑するが、カエサルは事実にそくして語り、比喩や形容詞は乏しく、必要十分なことのみを伝える。このキケロとカエサルの文体が、ラテン系文体の中の両極端の類型と言える。

・ヨーロッパの近代文学は、人間中心の歴史。ギリシア古典では、オイディプス王が父を殺し母と結婚したのは、彼の人間性や心理によるものではなく、運命によるものだった。運命による劇的葛藤は、は神と人間の間に生じるのであり、人間と人間の間に生じるのではない。ギリシア悲劇の主人公は運命に抗えるような可能性を持つ英雄でなくてはならず、そうでない普通の観客と劇中の神や半神を繋ぐのが合唱隊(コロス)の役割だった。反対に、心理と性格が登場するのが、ヨーロッパ近代の文学である。

・ロマン主義文学の偉業の第一は散文の形式(心理描写と性格描写には詩よりも散文が適していた)であり、偉業の第二は感情の吐露である「告白」であり、田舎女の心情の中に一切があるという信念であった。告白をするために、事実は必要ない。心理的事実を表現するために必要なのがフィクションという技法であり、ジュリアンソレルはスタンダールの心理的「私」であるが、ジュリアンソレルの起こした事実がそのままスタンダールの伝記的事実というわけではない。

・個人主義が要請する人間の平等が、政治法律的に実現されていたとしても、経済的に実現されてはいないことが分かり始めている。そこに対して否を唱えたのがマルクスであった。

・明治維新が作り上げたのは、結局「家」を最小単位とする国家であり、その家長は天皇であり、八紘一宇は世界的な「家」の家長が日本である、という思想。そこに、近代個人主義が根付く余地はない。

・科学的経験は、特殊な事象を通して世界全体に関わる法則を見つけるものである。文学的経験は、特殊な現象を通して、世界全体との関わり方を問うてくるものである。中間に値する日常的経験は、両方の性格はあるが、世界と部分的にしか関わらない、という点において、科学的/文学的経験とは質的に異なるものである。

・この本を書いたときの加藤周一は31歳。才気あふれている、、。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?