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珈琲とネクタイ

短編書きました。消すかも


僕の朝は毎日変わらない、つまらない朝だ。
スマホのアラームとともに7時に起床する。隣で眠る妻はいつものごとく起きないので、暫くその柔らかい頬をつねりながら寝顔を眺める。絹糸のような髪が彼女の整った顔に掛かっている。それをそっと払いながら、思いのほか時間が経っていることに気がつく。


「楓、朝だよ。起きて」と言いながら妻ー楓の肩を揺さぶる。うーん、という声とともに彼女は伸びをしながら目を開ける。おはよう、と言って僕は眠気覚ましの珈琲を入れる。豆は付き合っていた当初から変わらず、グアテマラ。苦みと酸味のバランスが良い品種らしいが、僕らも珈琲にすごく拘りがあるわけじゃないので品種を開拓しようという気持ちにはならない。


彼女が化粧をしている間、僕は簡単に朝食を作る。これも毎朝殆ど変わらず、スクランブルエッグとコンソメスープ、適当なサラダ。いつも通りありがとうと言って食卓につく彼女。
彼女は「今度開く個展の打ち合わせがあるの」とそれは楽しそうに話す。聞いた限り、かなり有名な画廊で展示を開くらしく、テレビや雑誌の取材も来るのだとか。彼女が楽しそうで僕もこのうえなく嬉しい。「打ち合わせ、良い案が出ると良いね」と僕も笑顔で返し、笑顔の裏で自分の変哲なさに思いを馳せる。取り留めのない話をしながら食事を終え、僕は職場に行く身支度をする。
スーツを着て、ネクタイを締める。彼女が「出会った頃と変わらないね」と突然言い出す。「さすがに老けたでしょ」と軽く返し、玄関に向かう。行ってきます。行ってらっしゃいと定型的な挨拶をかわし、僕はアパートを後にする。

仕事もいつもと同じだ。いつも通り大手コンサル会社の門をくぐり、取引先に提案をし、コンペに勝ち、後輩の相談に乗り、定時を迎える。同期から飲み会に誘われるが、妻が待っているからといつもの理由で躱す。


いつも通り家にまっすぐ帰ろうとした途端、僕は朝の会話を思い出す。妻は画家として自分の世界を広げ、日々新しい構想を練っている。アイデアのもととなりそうな文学作品や映画も彼女は時間を惜しまず見て、それを絵のなかに落とし込むのがとても上手だ。才能も努力する力もあって羨ましいが、変わろうとしないのは僕の怠慢だろう。ちなみに言っておくと、僕と妻は仲がよいほうだろうし、僕は妻のことをこのうえなく愛している。この劣等感は僕が勝手に抱いているだけで、彼女のほうは気づいていないだろう。寧ろ気づかなくていい。彼女に僕の汚いところは見られたくないから。


彼女は日々変わっていて、僕はそんな彼女に「変わらないね」と思われている。それがなんとなく悔しくなって、帰りがけに新しいネクタイを買う。珈琲も、かれこれ5年間同じ種類だなと思い返して、酸味が強めといわれるエチオピアを買って帰る。

家に帰ると妻が夕食を作って待っている。ただいま、おかえり、と挨拶を交わし、僕はさりげなくさっき買ったネクタイと珈琲を目につかない場所に隠す。なんとなく明日の朝に驚かせたかったからだ。夕食も談笑しながら食べ終わり、皿洗いは一通り僕が担当する。明日も早いからと寝る支度をして、同じ部屋で眠りにつく。

朝がくる。いつもと同じ流れで妻を起こし、昨日買ってきたエチオピアを初めて入れてみる。さすがにいつもと違うことに気がついたのか、彼女は不思議そうな顔をする。いつもと違うね、とカップのなかを指差しながら言う。僕は昨日なんとなく気が向いて買ってきたことを伝える。彼女はそうなんだ、と応じ、それから「これもいいけど普段のほうが安心感があるわね」と付け加える。これは僕も同意見だ。酸味になれていないからか、カップ半分飲んだところでくどいと感じてしまった。やっぱり、バランスがよい(悪く言うと平凡な)珈琲のほうが僕らの朝にはお似合いということかもしれない。

その後はいつものように朝食を食べ、出勤の準備をする。なんとなく、昨日買ってきたネクタイを着ける気になれなくて、僕は彼女との交際2年記念日で貰ったいつものネクタイをいつものように締める。
玄関先で彼女は思い出したように僕に言う。
「昨日『変わらないね』って口を衝いて出ちゃったのはね、
あなたがずっと出会ったままの姿でいてくれてすごく安心してるっていうことなの。
ほら、私はいつもどこかに行ったりでふわふわしてるから。変わらないものが自分のなかにあるとすごく安心するけど、無意識でそれをあなたに求めてるのかなって」

彼女はにこやかに言ってくれる。僕は「突然言われてびっくりしたよ、ありがとう」と笑顔で返す。いつも通り僕は出勤する。

こんな僕でも彼女のアイデンティティを支えられているのか、と思うとそれは嬉しいし誇らしいことだ。
ただ、
ただ、僕は彼女にとっては眠気覚ましの珈琲みたいに、変わられると安心できないもので、自由な彼女とは相変わらず対極にいなければいけないのだと感じる。
それが、少し苦しい。


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