「文字禍」中島敦

「日本近代短編小説選 昭和編1(岩波文庫)」から。
平野啓一郎さんの「小説の読み方」にあった、4つの視点から読んで考えてみた。

①メカニズム小説の仕組み)
古代アッシリアを舞台に、アッシュールバニパル王が、主人公のナブアヘエリバ老博士に、文字の精霊についての調査を命じる。舞台として、純粋に「文字」について考えられる時代設定。
文字を通して、建物や人間生活あらゆるものが分解されていき、その意味や実存といったものへ疑問を持つようになる。そしてそれは「歴史」という時間の軸をもつ物に対しても向けられ、今存在しない物にたいして、文字に書かれていない・書かれているという別によって、本当に存在していたのか?何が「事実」なのか?という問が生じる。
また、特徴的な登場人物として、ナブアヘエリバ老博士よりも博学な書物狂の老人がいる。この人物は、日々の生活に関することは全く抜けおち、背中もひん曲がり、とんでもなく近眼だが、あらゆる博識を誇る。しかもそれでいてとても幸せそう、ということである。この人物は目的や意味などにとらわれていない、純粋に知識を楽しんでいるから、幸せに見えるのだろうか。
ただ、その中にも、因果関係として文字を知ってから女を抱いても楽しくなくなった70歳を超えた者も登場し、「もっともこれは文字の精霊のためではなさそうだ」といったユーモアも混じる。市井の人の描写の優れているところである。
また、中島の文学の特徴である、漢語のオンパレード。それでいて、すっと内容が入ってくるのは一体なぜか?ストーリーや主題のわかりやすさ、仮にその漢語の意味が分からなくとも、その太いプロットが故に推測ができる。稀代のストーリーテラーである。
そして結末として老博士は、王から謹慎を命じられた上に、地震で文字板そのものに潰されて圧死する。この結末が意味するのは、おそらく文字を通して意味や実存に深く首をつっこんでしまったことを示すのではないか。


②発達
作家の変化の過程をたどる
文字禍は1942年に中島敦が33歳のときに発表される。同年にぜんそくで中島は亡くなってしまうが、文字禍にある実存に対する疑念は、小学校の頃からあったようである。
中島は漢学者の家系に生まれ、そこで培った漢学的素養に加え、また、結構父母が複雑な家庭だったようだ。大連や京城(ソウル)など植民地でも育ち、横浜の女学校の教師となる。女学校教師時代の1940年頃、アッシリアやエジプトの歴史を勉強していたらしい。
そこから、それまで書いていた私小説から古代などに作品の舞台を移すようになった。そのため作品自体は1940年頃に書かれたものである。
中島にとってはようやく作品が世に出た、というところであった。


③進化社会の歴史、文学の歴史の中で、その小説がどんな位置づけにあるか
1940年代は戦争の影響もあるはずだが、中島は文学と戦争とは別のものと考えていたらしい。もちろん文学の政治利用やアジテーションには明確に反対していた。
文学の中では「芥川の再来」など呼ばれたそうだが、当時はまだ現在ほど受け入れられず、川端康成などは中島の芥川賞の受賞がかなわなかったことに怒っていたようだ(川端は中島を推薦)。
その後芥川の亜流などではなく、その透明性や美しさ、完成度の高さを評価される向きとなった。


④機能(ある小説が作者と読者との間で持つ意味)
自分自身の問題意識とも非常に似ている作品。梶井基次郎の「瀬山の話」で、「ア、アはなぜアなんだろう、ア」という一文があったように思えるが、それと同じく、分解していくと根拠のないもので成り立っている。
自分自身もこうした根拠のないものを突き詰めることによる崩壊を悟った。しかし、こうした客観意識は持つ必要があると思っているし、それをこのような寓話で端的に、かつ特徴的な文体を持つのは素晴らしいなと思う。
大好きな作家の一人。専ら高校生の頃教科書で知ってから、大学の時に岩波で読んだときから、「実存に対する疑い」という部分にとても共感しているからだ。
ぜひ全集などで深く知っていきたい。

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