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君(とわたくし)の季節


先週リリースした「君の季節」、聴いていただけましたでしょうか。今年は「これまでにない」を意識して曲を作ってきましたが、この曲はそれこそこれまでのevening cinemaにはなかったタイプの曲だ。作った当初はそこまで思い入れはなかったが、レコーディングを通して自分でも好きになれた曲。年末のこの時期が一番好きなので、良い時期にリリースできたと思います。​


またあることないこと乱雑に書き殴ります。

「奇跡」という言葉、聞いてどう思うだろうか。よく耳にする表現だと、「○億人の中から君と出会えたのは奇跡としか言いようがないよ」といったところか。うん、何ともロマンチックな言葉である。こと恋愛においてこの言葉が使われると、もうこれは告白同然ではないかという、甘美な響きを備えた言葉だ。断っておくと、決して皮肉ではない。「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら」って、誰もが知ってるあのフレーズも、奇跡って言葉と相性いいだろうと思う。

さて。ここで例えば、のお話。
僕が、あるバーでたまたま席が隣になった女性(Aさんとする)と意気投合し、恋人 になり、遂には結婚してめでたしめでたし、ということがあったとしよう。僕は言うだろう。 「あの日あの時あのバーであの席に座ってなかったら、君には出会えなかった。これは奇跡だよ」 と。だが、ここでちょっと立ち止まって考えて欲しい。僕は、その相手の女性が「この Aさん」 でなかったとしても、同じことを言ったのではないか?例えば、あの夜バーで出会ったのが 全く別人の Bさんだったとして、仮にそのBと結ばれても、僕は「これは奇跡だ、だってあの夜に僕の隣に座ったのが君でなかったら…云々」と思ったのではないか?

こういうときには、僕ではない他の人の(三人称的な)視点で考えてみるとわかりやすい。別に僕は、その夜に出会った女性が誰であろうと、自分と波⻑が合いさえすれば(もっと言えばきっかけさえあったなら)、それが奇跡だと言って浮かれていたのではないだろうか。
三人称的な視点で考えてみれば、「あの夜僕が奇跡的に出会いを果たした人物は、誰でもよかった」。他に出会っていたかもしれない人は無数にいたし、仮にその夜そこで何も起こらなかったとしても別の機会が僕にとっての「奇跡」になってたかもしれない。数字で考えればこうなるだろう。これはあまりにも暴力的である。自分が心底好きになった人が、「他の誰でもあり得た」だなんて!

この例から示唆されるのは、ひとつにはこういうことだ。過去の出来事は必然的な物語として記述することが可能だが、未来志向の視点を取ればそれらは偶然であるかもしれない。親と子の関係で考えてみるとわかりやすい。過去視点で考えれば(つまり因果の糸を辿っていくと)、子は他でもなく「この」両親2人だったから存在したと考えることができる。一方で、未来志向の視点で考えると、この両親2人から生まれてくるのは、別に「この私」じゃなくてもよかったはずだ。
わかりにくい…かもしれない。まぁ要は未来志向の考え方は、捉え方によってはこういう風に、なんか物寂しいというか、ともすれば暴力的でさえある。ただ僕が思うのは、奇跡——
そう呼ぶに値するものがあるとすれば——というものは、おそらくこの未来志向の偶然性の中にしか潜んでいない。

芸術作品や文学作品も、この親と子のこの関係に似ている、と思う。僕らが創った音楽は、僕や、バンドのメンバー、制作に関わってくれた多くのスタッフの皆がいなければ、確かにこの世には存在しなかったものである。一方で、繰り返しになるが、「この」メンバーではなくてもあり得たものかもしれない…。

「それでも!」と思えるかどうかだと思う。今の時点ではこれくらいのことしか言えないが、「他の誰でもあり得た」けど、「それでもこの人が良い!」とか「それでもこのチームが良い!」と思えるか。「他の誰でもあり得た」のに「わざわざ(?)このチームが集まって作品を生んだ」。それはつまるところ、己の内に信じる力を宿しているかどうかだとも言える。これは、多分人間の自由を信じることに通じるし、神様を信じることにも通じる。その信じる情熱を覚さぬよう、来年も突き進む所存であります。

尻切れとんぼ感が半端ないが、似たような話は今後どこかで詳しく。
年越し蕎麦を食べねばならないので。それではまた!
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