見出し画像

恋という魔法、あるいは深遠なる苦悩 —『AESTHETICS』リリースに寄せて—

evening cinema ミニアルバム「AESTHETICS」8/26(水)リリース

 一説によると、チャーミングの語源Charmは、魅力という意味の他に、魔法という意味を持っているらしい。二葉亭四迷が「Yours...」という文句を「死んでもいいわ」と訳したというのは有名な逸話だが、要するに、「あなたのためなら死ねる」なんてことが言えるのは魔法にでもかけられたからじゃあなかろうか。こう考えると、「恋の魔法」だとか「恋の魔物に取り憑かれる」だとかいう言い回しも、よりいっそう説得力を持つようになる。魅力的だ、素敵だと思ったら最後、もう魔法にかけられてしまったも同然なのである。恋はひとを理性的でなくさせるが、そんな状態は全くの狂気であるか、あるいは魔法にかけられているかのいずれかである。ともあれ、恋することにはいくらかの危うさも潜んでいる。

 「恋に落ちた、実はあの娘が好きなんだ」と口外することが憚られるのは、もちろん本人が恥ずかしいと思うのもあるだろうが、そもそも恋すること自体何か背徳的なことだと考えられてきたからではないだろうか。少なくとも、無意識のうちに、何かイケナイコトをしているのでは、というスリルが存在しているように思われる。思えば、現代で日常語としてこの言葉を耳にすることはほぼなくなったのだが、その昔はいわゆるデートのことを逢引と呼んだ。字引を見てみると、「人目を忍んで男女が合うこと」とある。この「人目を忍んで」というところがキモだ。なにも日本に限ったことではないのだろうが、やはり男女の中というものは、あまり人前で公表するのは好ましいものではないと考えられてきたのだろう。

 今日ではその観も薄れてきたようだが、それにしても、恋は両義的で、「いのち短し、恋せよ乙女」とかいう一方で「恋は盲目」とか「あの娘に御用心」だとか言ったりもする。なぜ用心しなきゃならないかといえば、やはり魔法にかけられないためだ。ある種の背徳感を抱くからなかなか話しにくい・・・のだが、これがもっと深刻になると、つまり「魔物に取り憑かれてしまう」と、他人にその経験を話してしまいたくなる、ということが起こってくる。あるいは、誰かにこの魔法を解いて欲しい、と居ても立っても居られなくなる。思うに、世のなかの恋愛話の多くは、こういった事情でなされているに違いない。しかしこの手の恋愛話が新鮮でいられるのは本当の初期段階だけで、あとは手垢がついて錆びていってしまう。

 僕自身の考えはといえば、やはり男女にかかわらず色恋沙汰は他人に話さないに限る。というのは、口にした途端、魔法であったはずのそれは現実化して他人からの羨望や忠告(厄介な場合は嫉妬ないし軽蔑)の対象となり、徐々に魔力を失っていってしまうからである。かと言って、そもそも魔法にかかってはいけないと言いたいわけでもない。とどのつまりは、二人だけの秘密は大切にしまっておこうということだ。少しでもロマンチックな恋愛を求めるなら、それをゴシップまがいの愚談に変えてしまうのではなく、魔法のままに保存しておくのが良い。そして自分だけ、誰にも見えないところで密かに苦悩すれば良い。

-

原田夏樹 evening cinema
https://linktr.ee/evening_cinema


新作「AETHETICS」:https://friendship.lnk.to/AESTHETICS


MV「純愛のレッスン」:

9/5 SHIBUYA TSUTAYAオンラインライブ(無料)https://ameblo.jp/shibuya-tsutaya/entry-12614697088.html

出演、取材、楽曲提供、コラム等のご相談はHPよりお願いいたします。
https://www.evening-cinema.com/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?