【豪州留学記】1学期振り返り:大きな未完成品になるための道
こんにちは!オーストラリアのメルボルンに留学中のイブキです。
先日、メルボルン大学の2024年1学期が終了しました。振り返ってみればすごく速かったし、一瞬でした(ははは)。
本当に色んな人に支えてもらいました。
ありがとうございました。
ということで南半球の現在は冬休み。
長期休みに入って同級生はほとんど地元に帰っちゃったので、ここ最近のメルボルンはどこかいつもよりも静かで少し寂しいです。メルボルンをメルボルンたらしめる、その魅力の一つはやっぱり「人」ですね!!!
はい!ということで、
今回の記事ではメルボルン大学最初のセミスターが終わったということで、今学期の振り返りを行っていきたいと思います。
結論から申しますと、今学期の大学での授業や活動を通じて学んだこと、見出したことは1つ。それは、自分は「小さな完成品」よりも「大きな未完成品」になりたいということです。
この「大きな未完成品」というのは、先日読んでいた藤原正彦さんの本、『日本の矜持』の中に出てくる言葉で、戦前までの高等教育*が目指していた人間像のことを指します。
*語弊がないようにお断りしておくと、私は別に兵士を育てるための戦前教育が良かったとか、そういう思っている訳ではありません。ただ、GHQの占領以前の日本の教育史の中で培われた教育観が素晴らしいなと思い今回、この言葉を引用させて頂いた次第です。
私は今学期のメルボルンでの学びを通じて、この「大きな未完成品」こそが自分が目指したい自分の姿であり、これはアデレードでも日本でもなく、このメルボルンでしか成し得ないことなんだと確信するに至りました。
こう思うように至った経緯を3つ、お話します。
今学期重点的に行ったこと
以前の記事で今学期は授業を4教科(full-work load)受けようと思うと書いたと思います。ですが、結局Census date(授業最終登録日)の前にヨーロッパ史の授業は落として、通常より1教科少ない3教科で臨むことにしました。以下、今学期に履修した授業です。
代わりに、余った時間を使って今学期は専攻の地理学と趣味のストリートダンス、数学講師のバイトの3つに絞って活動をするように心掛けました。
重点ポイント①:自然と文化の持つ力について理解を深めたい
1つ目は専攻の地理学を楽しむこと。私は将来、大学で学んだ経験や育んだ価値観を通じて外交ジャーナリストの世界でトップとなり、また世界を飛び回る体験をする中で日本の文化への造詣を深めることで、自分が死ぬまでに日本を世界一の文化立国にしたいと考えています。
人間の文化的活動は遡ると全て自然に行きつく訳ですから、外交ジャーナリズムの世界でトップになるためには自然と文化両方に関連した何かを勉強したいと思い、大学ではHuman Geographyを専攻することにしました。
詳しいことは大学のHPに載っているので説明は省きますが、つまり環境的また社会的プロセスがどのように我々の生活を形作っているのかについて学ぶことが私の専攻の主な目的であります。
なので私は今学期、専攻の一環としてFamine: The Scarcity of Geographyという「飢餓」に関するトピックを取り上げる授業を履修しました。この授業のゴールはずばり、"Is Famine caused by human error or natural disasters?(飢餓は人為的ミスと自然災害のどちらによって引き起こされるものなのか)”という問いに答えられるようになること。
結論から言えば「両方」が正解だろうと思うのですが、ではその原因や引き金は何であるのかを具体的なケーススタディを見ながら学んでいきました(e.g. イースター島の文明崩壊、インドの緑の革命など)。この授業を通じて、私は飢餓が起こる原因に関連するいくつかの理論を知ることが出来、文明の崩壊に寄与するする自然的/社会的プロセスへの理解を深めることが出来ました。
例えば、この授業では「飢餓」のことについて学んでいるはずなのに、ジェンダー学の持つパワーについても学ぶことが出来ました。一部授業で学んだ内容をここで挙げると、極端なジェンダー論と飢餓には強い結びつきがある模様です。
少し難しい話になりますが、頑張ってついてきてください。
配分理論(distribution thory)を掲げるBoserupというデンマークの経済学者は自身の論文で、飢餓の理由として①社会的、②政治的、そして③経済的要素があることを挙げています。
「Paradox of plenty(豊かさの矛盾)」という言葉が示す通り、いくら食糧があってもこの3つの要素が上手く働かないと資源が上手く配分されず飢餓が起こってしまうことが、人類の歴史では東西問わず起こって来たようです。そしてこの具体的なケースとしてBoserupが挙げているのが女性の農業分野における地位向上の与える影響。
発展途上国の現在の農業労働者の43%は女性であると言われていますが、「男性によって所有される」という考え方によって社会的信頼を得られず、教育や個人資産、銀行口座等へのアクセスを許されず基本的人権が虐げられている現状があります。Boserupはこれに着目し、女性がこうした社会的抑圧を克服すればその国の農業生産は向上し、結果的に国全体の経済成長にも繋がるだろうと主張しているのです。
私はもともと、女性の地位向上の議論を行う度、結論が罪悪感や憐れみと言った同情論に流れてしまうことにどこか納得がいっていなかったのですが、この授業を通じてかなり腑に落ちました。
先日の「世界経済フォーラム2024」(通称:ダボス会議)で世界の最新の「ジェンダーギャップ指数」が発表されたばかりですが、順位が低かった我々日本人も(そして多分オーストラリア人も)、女性の経済活動や政治参加を促進することは女性だけでなく、その周りの男性やNon-Binaryの方にも利益が及ぶことをもっとより理解するべきなのかもしれませんね。
話が少し脱線してしまいましたが、私はこの授業を通じてやっぱりGeographyって面白いなと思いました。授業の内容が深いとかそれだけじゃなくて、探求することに終わりがないことに魅力を感じました。自分で試行錯誤して「飢餓が起こる経緯ってこういうものなのかな?」みたいな理論を構築して、それが新しい技術の登場や新しい飢餓が起こるたびに壊されて、みたいなそういう学問的な歴史を知れたことが面白かったです。
だから、終わりがないという意味で大きな未完成品。飢餓なんて規模が大きすぎて解決しようがないと諦めちゃいそうじゃないですか。でも、時代や場所が違えど何か共有するものがあるはずだと野望を持って模索する姿がカッコいいなと授業を取っていて思いました。
重点ポイント②:フリースタイルダンスで豪州一になりたい
ただ勉強だけが全てではないので、授業外ではよくダンスの練習に励んでおりました。そもそも僕はオーストラリアに留学するまでダンスなんてものはやったことがなかったのですが、案外楽しくて、のめり込みました。
この間も大学の中でやっていたダンス大会に出たばかりで、結果はボロボロだったけど出て良かったです。やっぱり人前に出るのは度胸がつきますし、歓声を味方に付ける能力や緊張を楽しめる能力を自分はもっと伸ばしたいなと思いました。
ただ何よりも勉強になったことは、踊りとは世界共通の文化であり、ジャーナリストの卵としてこれを楽しまない術はないということです。
有名な句として2つ、私の好きなフレーズがあるので引用させて頂きます。
自然や文化の関わりについて勉強する研究者の卵としては、どこの国に行っても大概、どの文化にも踊りと音楽が存在するという事実は興味深いものです。また、この音楽がもつ力は凄まじいもので、草津節のように仕事をはかどらせたり、戦後日本で歌われた歌謡曲のように人をしんみりさせたり時に鼓舞したりする力を持ちます。
こうした、「人の感情を巧妙に操る」ということが出来るというのは音楽と恋愛、あとは文学くらいでしょう笑
鳥のさえずりや木の揺れる音などは細かく覚えていなくても、朝電車で聞いた音楽などはまだ覚えていますしね(英語ではこれをEarworm、音楽が頭から離れない状態と言ったりもします)。そういう意味では、言葉も音楽の1つでしょう。
オーストラリアの先住民族の一部やアイヌ民族などが文字を持たなかったことが知られていますが、こうした文明にも共通して素晴らしい音楽や言葉は存在します。
歴史という縦の軸、地理という横の軸をとってみても、音楽作品は表現の仕方は多様というか、変わり続けるものなので「大きな未完成品」なんだと思います。
重点ポイント③:日本人コミュニティを盛り上げたい
また、今学期から新しく始めたことが、現地の日本人学校で行う数学講師のバイトです。もともと教育には関心があって、先学期まではある教育系会社でインターンをしていたほどだったのですが、こうして教壇に立ち生徒に教科を教える経験は初めてでした。
オーストラリアの教育に関わることを通じて考えさせられたのは日本の若者・教育問題。
職場の上司が現在、小学校教員になるために教育大学院で学んでいるので聞いたことなのですが、オーストラリアは教員になるために書かされる論文の数が半端じゃないそうです(学期末は3,000wordsが4つとか…)。
日本の大学生が学ばな過ぎだとか言いたいわけでは毛頭ありませんが、オーストラリアで先生になりたい人がこなさなければならない勉強量には甚だ驚きました。ただ、質の高い教員を輩出するために敢えて厳しい道を作った政府と、それを妥協せず乗り越えようとする上司の姿はとてもカッコいいと思いました。
日本の中学校教員の仕事時間は週平均56時間とOECD(経済協力開発機構)の中では最長だったみたいで、その長時間労働の背景から「教員の量的不足と質の低下」と「教員の業務範囲の拡大」という2つの問題が叫ばれているようです。
授業の準備から事務的作業、生徒のケアに至るまで「教師って大変だな…」とひどく痛感したセミスターではありましたが、これが悪質な現場でなされているとなると、かなり教師になりたい人は減ってしまうだろうなと思った次第です。
ただ、教えることにやりがいを感じる瞬間もありました。例えば勉強を教えていた生徒が問題を解きながら「数学って楽しいな…!」と言う時とか、「あーそういうことか!」と生徒が閃く瞬間に立ち会える時とかは、正直こっちも嬉しくなります。
個人的には数学の授業を通じて、世の中で渡り合うための「武器」を配っているというか、一緒にこれからの日豪、世界を作っていく仲間を作っているという感じで自由にノビノビやらせてもらっていますが、自分も生徒も成長途中という意味で僕らは未来の「大きな未完成品」。
州公式の情報によると私が通うメルボルン大学のあるVIC州にいる日本人の総数は約15,000人と、西軽井沢にある御代田町の人口と同じくらい。他の国の方と比べると本国の人口の割に、とてもこじんまりしているなと感じていますが、日本で育った数少ない現役の大学生として今後もどんどん、メルボルンの日本人コミュニティを盛り上げていきたいと思います。
今後のビジョン
今学期はちょっと疲れたなと思ったら近くの公園に散歩に出たり、中間休みはキャンプに行ったりと息抜きもよく出来て良いセミスターとなりました。
来学期からはもう少し忙しくなるかな、と思うので、今学期学んだ人生を楽しくインパクトある道で生きていくためのコツも参考にしながら、自由気ままにやっていこうと思います。
目標は「合理的な楽観主義者」。
まだまだ形の見えない、ちょっと大きな未完成品ですが、来学期からもこの「メルボルン留学記」をご笑覧いただけますと幸いです。
今回のブログは以上になります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
では、また!
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