命の価値
前回の似非メンヘラが嫌いという記事は削除しました。
解決したというか、向こうが自爆しちゃいましたので。
ところでメンタルを一度ぶっ壊している私は、あまり命に頓着がありません。仮に明日死にますと医師や誰かに言われたとしても「ああそう」みたいな、厨二病とかではなく本音の部分で執着を失くしてしまっている。人生の峠は越えたし、あとはおまけ感覚です。
だから「明日アンタ死ぬよ」と言われても「マジかぁ」程度。
精神疾患で根治しない人の典型的なものだそう。
それでですね、なんでこんなこと書こうとしたのかなんですが、定期的についったくん(現X)でとある方の自殺について話題が起きるからです。不審死なのか自殺なのか、私は詳しくないので知りません。陰謀があろうがなかろうが、私が重視しているのはそこじゃない。
此処では一応自殺『だった』と仮定して文章をつづりたいと思います。
精神を病むということ
とある人の自殺で騒いでらっしゃる方々、全員が『仕事は順調だった』『自殺する理由がない』と述べていらっしゃるけども、一度メンタル粉々になるまで病んだことがあれば「なに言ってんだお前?」ってなります。
判る人・共感できる人おられるのでは?
そもそもソレを決行するって別に計画的なわけじゃないですからね。計画的にする人だって中にはいますが、大抵は発作的にやっちゃいます。それまで普通に生活していた人がある日突然首をセイヤーッなんて珍しいことでもなんでもない。よくある、病んでれば普通によくある話。
たぶんそれが健全な魂で健全な生活している方々には理解出来ないんだろうなぁ……と、話題になるその人を見る度に思うんです。
だってそれを不審死だと騒いでおられる方々、『二年ほど前からなにかに悩んでいた』との情報を入手してるのですから。
二年。
二年も悩んでいれば病みます。
なんなら三日で人は狂う。
一度狂い始めた人の精神は行き着くところまで行くか、奈落に落ちる手前で引き返すか。それは時の運としか言いようがありません。奈落に落ちるのにも何段階かありますし。
ただひとつ間違いないのは、絶対的に周囲の人間に病んでいる人の気持ちは理解出来ないってこと。冷酷に断言しますが絶対無理です。どれだけ寄り添っても無理。寄り添った人が次に壊れるだけ。
仮に「私は寄り添えた!」や「俺は寄り添った!」と言える人がいたとしましょう。
それ既に相手が治療中だっただけです。貴方が寄り添ったから治療に成功したのではなく、既に治療に成功しつつある中で貴方が寄り添ったに過ぎません。あまり自惚れないでくれ。
病んでいる人が自力で「変わりたい」と思い、死に物狂いで全力出さなきゃ無理ゲーです。本人の意志次第です。素人の干渉で治るなら精神科は必要ないでしょう?
そして病んでる本人が死に物狂いで「変わりたい」と全力出せる状況、そんなもの作り出すの神様だって無理。圧倒的熱量差で無理。もうマイナスに振り切っている状態の人に、プラスに振り切れって無理難題も甚だしい。馬鹿言うな、やれて精々マイナス寄りのニュートラルだ。
だって病んでる人は「今この瞬間にすべてが元通りになってくれ」と願っている。病んでしまう前に戻りたくて仕方ない。病んでいるから地道な治療とかうんざりしています。なんなら早く消えたい、早く目覚めなくていい明日が欲しい。そんな思考に染まっている人間が、どうしてプラスの思考を持てますか。
本人から変わるのは無理ゲー。ただなにかとの出会いで切っ掛けは作れるかも知れない。そのなにかは人でも物でも知識でもなんでもいい、けれど砂漠の中から別種類の砂を探し出すのと同じぐらいに詰みゲー。
だから「時の運」なんですよ。
統合失調を除き、病んでいる人の大半は精神が弱いとかではなく、寧ろ強かったのに心が折れた人です。人より強い精神を持っていただけに一度砕けたら取り返しつきません。
もう賽の河原だからよ。砕けた心をひとつ詰んでは獄卒に蹴り飛ばされ、振り出しに戻るを繰り返してんだわ。一日中ずっと。
どれだけ周囲に心配かけまいと抗っているのかなんて周囲からは判らんですよ。しかし以前と同じような対応し難くなっている心を抱え、以前より上手く対応出来ないおのれへの憎悪が募る。
嫌悪ではなく憎悪に発展したそれは更なる絶望を呼び、常に死神とタップダンスする生活。毎分毎秒『以前の自分』と『現在の自分』の違いを自身で感じ取ってるから、他人がどうのではなく自分が自分を許せない。
うっすい刃物の上を歩くように日々を過ごしているんで、ちょっとした出来事で行動に移します。
その「ちょっとした出来事がなかった」と思われても、そんなん本人の心の中のことだからね。あーなんか天気がいいからやっちゃおっかなとかあるから。歯磨き粉切れたからやっちゃおとかザラだから。
そういう世界なんです、病んでる人って。
病んでる、病んでた人は「仕事が順調だろうが二分前まで普通に会話していようが、発作的にやるやつはやる」と知ってます。知ってるのでそこに焦点当てて議論している方々を「なに言ってんだこいつ?」と思ってしまう。
理由なんて本人の中にしかないし、仕事が順調でも病んでる心だって順調です。順調に見えても心の中で奈落への落下を繰り返してます。
理解出来なくても否定しない
個人的な意見ですが、自ら命を絶った人に「相談してくれればよかった」や「生きていれば解決出来た」と言う人が苦手です。相談されなかったお前が駄目だろと思うし、生きていればそれだけ地獄が続くんだが?とも思う。
相談しなかった相手が悪い、生きなかった相手が悪いと、亡くなった相手をいつまで責めているんですか。一段高い場所から見下ろして、「生きていれば解決法はあった」なんて綺麗事ですよ。
その人の痛みはその人のもの。
他人が推し量れるものではありません。
とかく「自分ならもっと頑張れた」など仰る方が出て来ますが、その比較に一体なんの意味があるのでしょう。貴方が頑張れたとしても、本人が頑張れないと思っての行動です。
心臓疾患を持っている人に「俺なら全力で走れる」と言いますか?障害を持って生活している人が必死に生きようと藻掻いてる中、健康な身体でただ走れるだけでそれが努力になりますか?死を感じながら生きている人のハンデを無視して努力足り得ますか。
同じだけ泥にまみれ地獄を見てから言って欲しい。
理解出来ないなら理解出来ない、それでいいです。理解出来たから凄い、理解出来ないからまずいじゃないんです。
ただ否定はすべきではない。理解出来ないから否定するって、それこそ思考停止じゃないですか。
本人も「生きていればなんとかなる」って自問自答しているんですよ。何億何兆も自問自答繰り返した挙句、もう無理と思って選んだ道です。そんな思考すら放棄してると思われてるんだとしたら、侮辱にもほどがあるのではないでしょうか。
見送る側の心構え
悲しい気持ちは判るし、死を悼む思いだって判ります。
でも「お疲れ様、ゆっくり休んでね」と私なら言われたい。よく頑張った、もう休んでいいよと許して欲しい。これ以上頑張れないと思っての行動だと知っているから、最期の選択を否定するような発言は見ていてつらい。
その人の死に様はその人の生き様です。
どうか亡くなった人をこれ以上侮辱しないで。
やっと解放された命を縛り付けないで。
またいつかどこかで出逢えるとしたら、土産話を用意しとくよって気持ちで見送っていて。
死と隣り合わせで生きたことがある人なら、私のこの感覚を多少なりとも理解してもらえるのではないでしょうか。
理解されたい、そう思って久しぶりに深く潜ってしまいました。
来月に私の大切な大切な親友の命日が来ると思うと、もう誰も彼女を責めないでと泣けて来てしまう。
自ら命を絶つ人の心を、もう誰も責めないで欲しい。
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