見出し画像

貧困と努力 その1

「差別としての貧困」の続きです。貧困を努力のせいにするのはちょっと違うんじゃないの、と以前に書きましたが、今回はその続きということで、「努力」について考えてみようと思います。

以前のnoteで「差別としての貧困」を掲載し、その中で「貧しい人は努力が足りないんだから、もっと頑張ればなんとかなるはずだ!」という人に対して、次のように書きました。

だいたい「努力が足りない」なんていいますが、みんな努力してます。たとえば6時間連続で勉強できる人と、3分で飽きちゃう人だって同じ努力をしている。3分で飽きちゃう人は、それがその人の最大限の努力なのです。

そして、能の先輩と僕の稽古の話から…

あらゆる努力は、それへの糸口があるからできるのです。

…なんてことも書きました。

このことについて反論したい方もいらっしゃるとは思うのですが、ごめんなさい、僕のnoteはコメントを受け付けない設定にしています。そこで、そういう反論があるということを前提にして、今回は「努力」について考えてみたいと思うのです。

▼「努力」は農耕に根差した語

「努力」とは何なのか…ということを考えるときに、まずは「努力」という漢字から考えてみたいと思います。「え、そこから?」と思われる方もいらっしゃると思うのですが、まあ何事もその言葉が出てきた最初を探るのはとても大切です(ちなみに努力についての心理学的なことは書きません…というか、書けません)。

さて、努力の「努」にも「力」にも共通してあるの「力」ですね。「努」という漢字の中にも「力」が入っているでしょ。で、この「力」はもともとは農機具である鋤(すき)の象形なのです。鋤だなんていわれても知らない人が多いと思うのですが、まあそれは措いといて…。

そして、努の上の「奴」は「力を入れる」という意味になります。

この「奴」は、もともとは女性を捕まえて奴隷にするという意味ですが、ここでは「ド(奴)」という音(おん)で使われています。「ド(奴)」という音は「激しい勢いをつけた動作」をあらわします。「どーっ!」って感じです。

「奴(ド)」が付く漢字はいくつもありますが、誰でも知っているのは「怒」ですね。これはもう、すごい力が入った「いかり」なんです。「どーっ!」っていう「いかり」。

※鋤について
日本のWikipedia→「鋤」
 
中国版のWikipedia→「犁」

これまた余談ですが、「怒」の漢字が、歴史上最初に出てくるのは、戦国時代の晩期ですが、そのときの「怒」には「又」はなく、「女と心」だけなのです。この文字です。

上にあるのが「女」という文字、下が「心」。「女と心」だけで「怒」というのも、面白いと思うのですが、ここら辺はまたおいおい(古代の女性についても書こうと思っています)。

というわけで、あちこち寄り道しましたが、「努力」というのは、農業に関する言葉(=力)で、そしてその農作業を、一所懸命(激しく)する(=奴)という意味なのです。

農業って、コツコツしなければダメでしょ。そういう風にコツコツと、淡々と、さらにそれに力を込めて一所懸命にする、それが「努力」です。

▼農業と漁業

「努力」が農業ベースの語ということは、非・農業的な心性を持っている人には、どうも「努力」というものに親近感が湧かない可能性があります。「努力」に親和性がない。いや、むしろ苦痛に感じる。

「お米を主食とする日本は農業国家だ!」なんて言葉はこのごろは聞かれなくなりました。現代日本では、第一次産業としての農業はそんなに表立って自己主張をしてはいません。でも、やはり日本の多くの価値観は「農業的価値観」がベースになっています。

ここでいう「農業的価値観」というのは「忍耐」「信」です。農業は、それがどんなに小さなものであっても「忍耐」と「信」が必要です。

たとえば種を植えて芽が出るまで待つ。これって「忍耐」がいるでしょ。「いま桃の種を植えた。3分後にもう桃を食べたい」なんてありえない。また、種は解剖しても、その中には花も実もない。だから、「この種を植えれば、絶対に芽が出て、花が咲いて、桃の実を結ぶに違いない」という「信」が必要になります。

僕が育ったのは漁師町です。ひとりかふたりしか乗れないような船でする漁が中心の小さな漁村です。そんな漁業は、「忍耐」と「信」が必要な農業とは全然違う。小さな漁船での漁業は、種を撒く必要もなければ、じっと待つ必要もない。そこにある魚を捕ればいい(むろん、遠洋漁業などは別です)。

以前、よく行っていたライブハウスが奄美大島にあって(マスターが亡くなってしまい、それからは行ってないのですが)、お金を払わないお客さんが多かった。お金ないからね。

で、そのマスターは昼に釣りをして、その魚をお店で出す。釣りって、じっくり待っているようにも思うけど、種を植えて芽を出すまでの時間に比べれば短い(本当は釣りの「待つ」が本当の「待つ」で、農業の「待つ」はちょっと違うのですが、それはまた)。

そのお店のお客さんは、お金は払わないけれど、たとえば店の前の道をならすとか、水道管が破裂したのを直すとか、そういう土木作業などはしてくれる。中にはそういうことすらせずに、ただ飲みに来る人もいる(笑)。

でも、お店があるというだけで、なんといってもみんな楽しいし(これが何よりも大事!)。

それはそれで「交換(exchange)」というのとは別のところで、お店というものが成り立っている。それでOK!って感じなのです。

そんな心性は、努力とはちょっと位相が違うところにあると思うのです。

僕の親の稼業は漁師ではありませんでした。しかし、周りがみんなそんな感じだったので(って、そのせいかどうかは本当はわからないけど)、忍耐や努力はどうも苦手なのです。

その代わり瞬発力はすごいぞ(飽きやすいけど)!

あ、またちょっと余談を。能の中には農民って、ひとりも出てきません。山人と海人は出てくる。農業が入って来る前の漂泊の民たちの芸能ですね。

▼3つの身体

話を戻し…

メルロ=ポンティの身体論を持ちだすほどの大げさな話ではないのですが、僕たちは、「建前の身体(肉体)」「現実の身体(身体)」と、そして「思考の身体(精神)」とを、ふだんは混同しています。

現実の生活では、そんなことは意識していなくても、むろん全然かまわない。ところが、この混同は、ときには自分を責めたり、他人を責めたりする原因になる。これを分けるだけでだいぶ楽になったりします。

この3つの身体についてまずは簡単に定義しておきます。最初に、以降の話とはあまり関係がない「思考の身体(精神)」から。

(1)「思考の身体(精神)」

「思考の身体(精神)」というのは「自分はこんな人だ」と思い込んでいる身体です。自己イメージのようなものですね。多くの生物にとって、もっとも大切なことは「自己の保存」です。でも、人間は「自己イメージの保存」が「自己の保存」の上位に立つという特殊な生物です。

「こんな恥をかくくらいならば死んだほうがまし」とか「もう、生きている意味がない」などといって、「自己」を抹殺(自殺)しちゃったりしますから。他の生物からすればびっくりですね。

さて、あとの2つです。

(2)「建前の身体(肉体)」

まず、「建前の身体(肉体)」です。すみません、これはなかなかいい言葉がなくて(って、ブログなので気楽に書いているので深い思索はしていません:笑)、適当にこんな名前にしています。

あるいは「物質としての身体」にしてもいいし、これは同時に「抽象的な身体」でもあります。

お医者さんがいろいろな検査をして、「ああ、これがこの人の身体ね」というときの身体であり、自分が頭で「ああ、これが身体ね」と考えている身体です。これが「建前の身体(肉体)=物質としての身体」です。

基本は「人は死ぬ」というものがベースになっています。だから、「建前の身体(肉体)」にとっては「自己の保存」こそが第一命題になります。

世阿弥は「命には終(おわり)あり。能には果(はて)あるべからず」と言いました。観察対象としての「命(他人の命)」には確かに終わりがある。すなわち「死」はある(ように見える)。

でも、「自分の死」って絶対にわからないでしょ。

電信柱にぶつかった人が、ぶつかったあとにしか「ぶつかった」ということがわからないように、「死(death)」というのも、それを確信するのは死んだあとしかないと思うのです(dyingはあるけど)。

だから「自分は死ぬ存在だ」という「建前の身体(肉体)」は、他者を観察しての推測でしかない。「建前の身体(肉体)=物質的な身体」は、観察を通してのみ感知できる身体だと言い換えてもいいかも知れません。

(3)「現実の身体」

それに対して「現実の身体」というは、いまある、この身体です。

首が耐えられないくらいに痛い。整形外科に行っていろいろ検査をしてもらっても「別に異常はありませんね」と言われる。お医者さんが診るのは観察対象としての肉体、すなわち「建前の身体(肉体)=物質的身体」です。

「一応、痛み止めを出しておきますね。なんだったら首の牽引でもしますか」などと言われます。

でも、痛いものは痛い。誰がなんといおうと「痛い!」。それが「現実の身体」です。

このように「建前の身体」と「現実の身体」との間には、しばしば齟齬をきたすことがあります。かみ合わないことがある。

「建前の身体(肉体)」は、「人は死ぬ」というベースになっているので、「人はいつかは死ぬんだから、いまを一生懸命に生きなきゃダメだ!」なんていう。しかし、「現実の身体」は「そうはいっても、眠いし~」と、いまの状況に左右されちゃうのです。

▼ライオンに追いかけられる

「なに、甘えたこと言ってんだよ。眠いだなんて、甘えだよ」

…なんていう人がいます。そりゃあ、そうですね。甘えです。すみません。確かに僕が悪い…。しかし、そうは簡単に断ずることができないこともあります。

ここで「ライオンに出会った」という状況を考えてみましょう(って、あまりに非日常的な状況ですみません)。

突如として、眼の前にライオンが出現した。「やばい!」と逃げます。

「建前の身体(肉体)」の第一命題は「自己の保存」ですから、ライオンに食べられて「自己」が滅却しないように、「思考の身体(精神)」と協同して「逃げろ、逃げろ」と言い続けます。

むろん「現実の身体」も逃げます。その間も「逃げろ、逃げろ」というメッセージは、ほかの2つの身体から継続的に発せられます。

しかし、「現実の身体」は継続が苦手です…というか、できない。

逃げ始めはいいのですが、そのうち足が疲れ、息が上がる。すると「もう、これ以上走れないよ~」と音を上げます。逃げなければいけないと理性(思考の身体)ではわかっている。肉体(建前の身体)だって生きたがっている。でも、そういうものがどうでもよくなってくるのです。

▼ルビンの壺 ゲシュタルトの「図」と「地」

メルロ=ポンティは、ゲシュタルト心理学の「図」「地」という概念を紹介します。ルビンの壺が有名ですね(この図、ちゃんと購入した著作権フリーのものです:笑)。

「向いあったふたりの人(黒)」にも見えるし、「壺(白)」にも見える。人(黒)に見えているときは、人が「図」になり、壺が「地」になります。壺(白)が見えているときは、壺が「図」になり、人が「地」になる。

ライオンの話に戻ると、最初のころは「逃げろ、逃げろ」という身体の叫び(自己の保存)が「図」になっているのですが、疲れてくると、それらはすべてゲシュタルトの「地」に押しやられて、「もう、これ以上走れないよ~」という身体の<音上げ>「図」となって走れなくなるのです。

で、いつ走れなくなるかは人によって違います。なぜなら「現実の身体」は、「内から統一されたきわめて個人的なもの(山崎正和)」だからです。

▼船を転覆させたくなる船頭

それは努力も同じです。

どの分野に、どのくらい努力できるかは、その人の「内から統一されたきわめて個人的なもの」によって左右されます。

マラソンが苦手な人に「みんな苦しんいんだから、お前もがんばれ」という励ましがまったく意味をなさないように、3分で飽きちゃう人に「もっと努力しろ」というのは意味もなさないのです。

ここで中国の笑い話をひとつ紹介します。

ある船に乗った学者先生。船頭に「お前は文字が読めるか」と尋ねます。読めないと答える船頭に「お前は人生の半分を棒に振ったようなものだな」という。やがて、海が荒れ、船が沈みそうになります。船頭は学者先生に尋ねます。「あんたは泳げるか」。泳げないという学者先生に船頭はいう。「あんたは人生のすべてを棒に振ったね」と。

いま、いろいろなことがうまくいっている人は、現在の社会という、いまの状況が偶然、自分の得手と一致しているにすぎません。船頭であるのか、学者であるのか。それが吉と出ているのか、凶と出ているのか。それは状況と運次第です。

おそらく船頭さんは自分が得意とする泳ぎの練習はするかもしれないけど、文字の練習はしない。学者は本を読むけれども泳ぎの練習はしない。自分の得手に対して努力はするけれども、不得手なものは見向きもしないものなのです。

そして、学者先生からこんなことを言われた船頭は、かりに浮き輪を持っていても「こんな学者には貸さない!」という選択をするかも知れません。

いまの格差社会がさらに続くと、「こんな船(世の中)なんて、沈んでしまえばいいんだ」と、船をわざと転覆させたくなる船頭が増えるかも知れません。

「こんな社会ならば、戦争でも起こった方がいい」とかね。

…おお、だいぶ長くなってしまいました。続きはまた~!