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表現することを大切にしたい理由

多分僕は4〜5年くらい前から子どもに表現の機会を提供したいとずっと考えていました。少し野望めいた話をしても良いのであれば、アート鑑賞と、連動した表現のプログラムがいつも行われているようなミュージアムを作りたいとさえ思っています。これは個人の感想です。学術的なものではありません。

4〜5年前というと、子ども・教育関連の領域では「アクティブ・ラーニング」という言葉を頻繁に聞くようになった頃です。その内容を知れば知るほどに、素人発想ですが、表現の時間が大切な気がしてなりませんでした。

アクティブ・ラーニング

アクティブ・ラーニングという言葉は、小学校では2020年の学習指導要領の改訂に向けて活発に議論されたものです。現在では「主体的・対話的で深い学び」と表現されています。

これは何を学ぶのか?という学びの目的を変えるものではなく、いかにして学ぶか?という手法に関するアプローチだと理解しています。アクティブ・ラーニングは学習方法として、体験学習やグループディスカッションを主体とした能動的な教育法です。学び方を学習するとも言えるのかもしれません。

この話を聞いた時に最初に思い浮かべたのは、僕自身が学んだ大学の研究室でした。僕は芸術を学ぶ大学に通っていたのですが、そこでは自身の研究の答えを担当教官が知っているわけでもなく、自分で突き詰めて考える以外に学びの手段はありません。教官はもしろん指導の担当ですが、「教える」というよりも「導く」という感覚に近かったのかもしれません。その道の大いなる先輩として背中を押し、サジェストとナビゲートを与えてくれるような存在です。…というと失礼な言い方かもしれませんが…。

美大の研究室

研究室には常に数人の学生がいました。それぞれに自分の研究をしています。一見関わりのないような集団でありながら、確かにそこには影響しあう波長のようなものがあったと思います。時に議論することもあります。くだらない若者らしい話と、真剣なディスカッションはいつも背中合わせで、とにかく刺激的な空間でした。

また、表現というのはアウトプットの行為でありながら、知ること、つまりインプットがとても重要です。りんごの絵を描こうと思ったら、りんごを知る必要があります。記号としてのりんご(赤い、丸い)ではなく質感、重量感、味なども、知ることができればそれは表現することができます。知らないことはできません。

アクティブ・ラーニングで言われている体験学習や、ディスカッション、グループワークなどは全て美術大学の研究室で、日常的に行われているもののように思えてなりませんでした。

感情の表現の仕方を知らない子どもたち

子どもが突然キレる、という現代的な問題があります。思春期の成長とホルモンの変化が脳にもたらす影響などがあるようです。極めて個人的な見解ですが、僕はずっとこの問題の所存は表現教育の欠落が要因にあるのではないか?と考えていました。

自分の気持ちの表現方法を知らず、溜まった感情が「キレる」という形で表れてしまうのではないかと思っていたのです。表現というのは何も特別な才能ではありませんし、特殊な職業(アーティストなど)の人のための専門的なスキルでもありません。会議でプレゼンテーションするのも表現の一種です。人間が社会を形成し集団で生活する以上、必須なスキルだともいえます。

そんなこんなの思いが絡まって、表現を楽しむ時間を子どもたちとやりたいという思いが湧いてきたのでした。何より表現遊びはとにかく楽しいんです。

楽しい!という経験が好きにつながるのではないか?

だから僕が表現遊びに期待するものは効果ではありません。とにかく楽しいという記憶をもったまま大人になってもらいたいということです。表現の方法は多様です。描くことも、歌うことも、綴ることも、踊ることも表現です。得意な手法を磨けば良いと思いますし、何よりも表現することを恥ずかしいと思わずにやれたらそれだけで、少し日本の社会が変わるような気もします。言い過ぎだけど。

これまでのところ、「絵を描くのが苦手だ」という子どもはあまり多く出会ったことがありません(ゼロではないです)。だけど、苦手意識をもった大人はたくさん出会います。大人になる過程のどこかで苦手に思ってしまうのでしょう。ならば「楽しい!」という経験をたくさんすれば、大人になっても臆せず表現できるのではないかという短絡的な発想です。

少しづつ、場を作っていきたいことの一つです。

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