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「行かなかったら、あとで後悔するよ」

「行かなかったら、あとで後悔するよ」
運動会、合唱コンクール、文化祭、林間学校、修学旅行。
始業式、終業式、卒業式、集合写真。
学校には様々な行事があり、その行事が近づくと、この言葉を時折耳にする。
この言葉を言う人は、先生であったり、親であったり、クラスメイトであったり。そして、自分自身であったり。
「みんな一緒」であることに価値を置いているからであり、悪意はそこにないことも十分理解できる。

ただ、悪意がなければ、人は傷つかないかというと、そうではないことも知っているでしょう?

「クラスみんな一緒」であることを願うことは、それぞれの価値観なのでそれを否定するつもりは全くない。
ただ、「クラスみんな一緒」であることを叶えるために、「後悔するよ」と不安という感情を使って、動機づけをするのはどうなのだろう?とこの言葉を聞くたびに考えてしまう。

参加する子、参加しない子

実際、これまで多くの子たちと関わってきて、行事ごとに参加する子、参加しない子、もちろんどちらもいた。
そして、参加した子は満足し、参加しない子は後悔をするというほど単純なものではない。
参加した子の中には、満足する子もいれば、クラスの中で孤独感を感じる子もいる。
参加しない子の中には、後悔をする子もいれば、肩の荷が下りたように吹っ切って新たなチャレンジに向かう子もいる。

どちらが正しいと必ず決まっているわけではない。

自分で、決めること

自分が決めたことであれば、その喜びはより忘れがたいものになったり、決めたことには責任も持てるだろう。
そして、決めたことで後悔をしたとしても、それは自分が決めたことであり、徐々に受け入れ、付き合っていく力があることも、子どもたちの姿を通して感じている。

大切な学校行事、クラスみんなで参加したいという気持ちも理解できる。
そのために休んでいる子が何とか来れるようにと、考える気持ちも理解できる。

ただ、「後悔するよ」という言葉は、相手のことを思っているようで、相手を傷つけてしまうことにも思いを巡らせてほしい。

もし、仮に参加せずに気持ちが落ち込んだ時、その落ち込みの理由は「参加しなかった」からなのだろうか?
それとも「後悔すると言われた、『参加しない』という選択をしてしまった」からなのだろうか?

誰も悪意はないからこそ、せめて、うしろめたさなく選ばせてあげほしい。
そのためには、せめて、前向きな誘い文句だとありがたい。

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