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いつでも手探り

 たぶん、子育てはいつも手探りだ。育児書を何冊読んでも、子供の数だけ躓くところは違う。かと思えば、こちらがどれだけ先回りして、思案を巡らせても、軽々とハードルを超えていってしまうこともある。大人の先回りなんていらないのだ、と何度も目にしてきた。それでも、ついつい心配になってしまう。それがいいのか悪いのか、自問してもわからない。子供にだってわからない。時間が経って見えてくるかもしれないし、わからないままかもしれない。それでも、突き進むしかないのだ。

 長男は、習い事を二つしながら、補習校に通っていた。バレエのレッスンは週に二日あり、半年に一度の発表会に出ることにすれば、更に週に一度のリハーサルが追加される。結局、週に三日もレッスンがあるようなものだ。
 ピアノのレッスンは、週に一度だが、毎日家で練習をしなくてはならない。始めた当初は一日30分もすればよかったが、次第に宿題が増え、今では毎日二時間近くかかるようになっていた。
 今のところ息子は、バレエダンサーにも、ピアニストにもなる気はないだろうが、求められているもののレベルは、趣味と言い切るには高い。その期待に応え続けようとすれば、前にも呟いたが、本当に時間が足りなくなってしまった。結果、我が家は補習校を一年で辞めることにした。
 日本語の勉強を一番軽く考えたわけではない。ただ、補習校で周りと足並みを揃えながら土曜日に七時間を費やすならば、家でもできると思ったのだ。簡単ではないだろう。しかし、私は、ピアノもバレエも教えられない。日本語ならば、まだ教えることができる。ただそれだけで、補習校を切り捨てた。何せよ、何かを諦めなければならないくらい、時間が足りなかった。

 補習校を諦めても私が確保したかった時間は、長男が漫画を読んだり、公園で自転車に乗ったり、映画を見に行ったり、弟と遊ぶ時間だ。
 土曜日の朝、目覚ましをかけることなく、思う存分ゆっくりと眠れる開放感はとても心地いい。金曜日に向かうにつれ、気持ちが高揚する。金曜日の夜が遅くなったとしても、全く問題ない。そうだそうだ、週末はこうあるべきだと、四月の第一土曜日に思った。

 補習校に行かなくなって、日本語の学習に遅れが出るかもしれない。漢字の読み書きができなくなるかもしれない。英語優位になってしまうかもしれない。たくさんの「かもしれない」があるけれど、それはやっぱり育児と同じで、時間が経たないとわからない。
 後悔は先に立たず。ならば、なるべく後悔せずに済むように、自分の決断に全力で向かわなければならない。人生は、いつでも手探りなのだから、今その手で掴もうとしているものに、しっかりと向き合うしかない。


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