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照葉樹林物語「失われた大陸と長江文明、そして日本建国への道」

 夏休みと言えば、自由研究!…そんなわけで今回は、いつもの私小説とは少し趣向を変えて、特定のテーマを取り扱うブログ記事を制作させて頂きます。私は現在、神奈川県の大学に在籍して地理学などを探究しています。そして、夏と言えば山・森・海だと思います多分。そこで今回は「豊かな自然に恵まれた日本の文化は、いつ、どのように形成されたのか?」というテーマを「照葉樹林文化」というキーワードで考えてみたいと思います。



照葉樹林文化って何?

 照葉樹林文化とは「照葉樹林に覆われた地域には、共通した文化が見られる」という考え方です。具体的には「ヒマラヤ山脈(ネパール・ブータン)・アッサム(インド北東部)・東南アジア北部・江南地方(長江などが流れるチャイナ中南部)・台湾・韓国・西日本」などの暖温帯に照葉樹林文化が見られ、その中でも「ブータン・アッサム・北ビルマ(ミャンマー)・雲南・貴州・湖南」の地域(特に雲南高地)は、照葉樹林文化の中心と考えられ、その形から「東亜(東アジア)半月弧」と呼ばれます。

アユミ
アユミ

照葉樹林(常緑広葉樹)とは、緑色の葉が一年中、落ちずに付いているカシシイなどの事です」

 それでは、照葉樹林文化が提唱されるまでの経緯を見てみましょう。


日本文化の起源

 まず、現代の文化人類学東洋史学の研究者らは、日本文化が五つの段階で形成されたと考えました。それを要約すると、次のようになります。

  • まず、華南(中華南部)・東南アジアから、雑穀・根菜を作る焼畑農耕の文化(照葉樹林文化)が、縄文時代の日本列島に(二度)伝来し、南方アジア語も伝わった。

  • 次に、満洲(中華東北部)・高麗(朝鮮)半島から、畑作を中心とする「ナラ林文化」が、弥生時代の日本に伝来。その後、南方から水田稲作が伝来し、男性中心的な倭人(日本人)の文化が形成された。

  • そして、騎馬民族(高麗半島)の影響を受けた大王家(皇室)が、古墳時代の日本列島を征服し、天皇を中心とする日本国家を建国した。


海上の道

 また、我が国の伝統的な生活文化を研究する民俗学の立場からは、日本人の先祖が、稲作文化と共に華南から琉球諸島へ北上し、日本列島に辿り着いたという『海上の道』説が提唱されました。これは、日本文化を「南方から渡来した単一の稲作文化」と捉える考え方です。民俗学者は、山に死者の霊魂が宿るという信仰が、日本の伝統文化に根付いている事も研究しました。

ヒジリ
ヒジリ

「これらの研究は『日本人とその文化は、北から来たのか、南から来たのか?』『稲作を中心とする日本文化は、一度に出来たのか、それとも幾つかの段階を経て出来たのか?』を問うものですね」

 その後、文化人類学の研究により、我が国には、南方から伝来した照葉樹林文化が多く見られる事が確認されました。また、民俗学の研究では、日本に稲作だけでなく、畑作の文化も存在する事が明らかになってきました。

 つまり、日本列島には稲作よりも古い文化があり、それは南方から伝わって来たらしい…と考えられるようになったのです。こうした中で、その理由を解き明かす照葉樹林文化論が提唱される事になりました。


照葉樹林文化論から見た東洋史

 ヒマラヤ山脈(ネパール・ブータン)を探検した植物学の専門家は、農業の歴史を調べた結果、世界の農耕文化を「東南アジア(熱帯雨林)の根菜農耕文化」「アフリカ・インド(サバンナ)の雑穀農耕文化」「メソポタミアなど中近東(オリエント)(ステップ草原)の麦作農耕文化」「メキシコ・中央アメリカ・アマゾン周辺(熱帯)の新大陸農耕文化」などに分類する説を提唱しました。では、私達が暮らす日本などの東アジア周辺は、どのような農耕文化に属しているのか…それを考える中で発見されたのが「照葉樹林文化」と「楢林文化」です。

 照葉樹林文化は「東南アジアの根栽農耕文化と、温帯の雑穀農耕文化(焼畑)が複合したもの」と考えられました。その後、哲学者や文化人類学者などを交えた討論によって、照葉樹林文化論の考え方が深められました。

 それでは、この照葉樹林文化論という考え方に基づいて、私達の日本文化がどのようにして生まれたのか、その歴史を辿る旅に出発しましょう!

 この記事は、筆者の想像力で大雑把に要約している所もあるので、最新の学説と厳密には一致しない可能性があります事を、あらかじめ御了承下さい…。


旧石器・先土器時代(氷河時代)

 旧石器時代(日本では「先土器時代」とも言う)の地球環境は氷河時代(ウルム最終氷期)であり、氷河(大陸氷床)が増える一方で、液体の海水は減り、そのため海水面が130~150mも低下していました。その結果、華東海(東チャイナ海)は「華東海平原」という広大な陸地になっており、アジア大陸と台湾島も陸で繋がっていました。

ヒジリ
「同じ頃、東南アジアの大陸棚も『スンダランド』という陸地になっており、氷河時代でも暖かく、食糧も豊富な熱帯林があり、ここが伝説上の『ムー大陸』だったのではないか…と思う事もあります」

 華東海平原には落葉樹林などが生い茂り、そこに住んだ人類は、狩猟採集の技術を身に付ける事によって、寒冷な氷河時代を生き抜いていました。しかし、そんな人類に試練が訪れます。

アキ
アキ

「氷河時代(数万年前)の日本列島にも、既に人類が住み始めていましたが、私達とは別種の旧人類(ネアンデルタール人?)が居たとの説もあり、
彼らが、どこまで今の日本人と繋がっているのか、不明な点もあります」


新石器・縄文時代と洪水神話

 1万5000年前に氷河期が終わり、地球温暖化が始まります。氷河が溶け、液体の海水が増え、海面上昇によって、私達が住んでいた華東海平原やスンダランドは、海に沈没してしまうのです。

「私達の故郷が、海に沈んでしまう…!」

 私達は、沈みゆく華東海平原・スンダランドから脱出し、新天地を求めて民族大移動の旅に出ました。華東海平原の人々は、中華大陸の長江下流域(華東地方)か、あるいは高麗半島へと移住しました。また、スンダランドから日本列島に脱出した人々も居たようです。

サギハラ
サギハラ

「蒸し暑くなってきたから、食べ物を保存・調理できるような道具を作らないと…そうだ、この島の土を焼き固めて、食器を作ってみましょうよ!」

 スンダランドなどから日本列島に移住した人々は、急激な環境変動を生き延びるべく、九州(長崎県)で世界最古級の土器、即ち縄文土器を発明しました。こうして1万2000年前、日本の新石器時代である縄文時代(草創期)が始まったのです。また、一連の温暖化による海面上昇を「縄文海進」などと呼びます。

 華東海平原・スンダランドが海没したのと同じ頃、西方でも(東ヨーロッパと西アジアの間にある)黒海が洪水を起こし、周囲の人々を大移動させ、西アジアの歴史(新石器時代)に大きな影響を与えました。

メグミ
メグミ

「…世界中が暑くなって、こんな大きな洪水が起き、大陸が沈んでしまうなんて…これはきっと、神様の御怒りなのかも知れない。この大洪水を、未来に語り継がなきゃ…!」

 そう、この縄文海進…即ち「新石器時代(日本は縄文時代)の地球温暖化による海面上昇・異常気象水害」こそが、現代まで語り継がれる『ギルガメシュ叙事詩』や『旧約聖書』に書かれた「ノアの大洪水」伝説なのではないか…とも考えられるわけです。それはまた(環境破壊や温暖化を引き起こしていると言われる)現代の私達への警告であるのかも知れません。ついでに、この縄文海進で沈没したスンダランドが「ムー大陸」だったとすれば、日本人はその末裔で…なんて、オカルティックな妄想をしたくもなります。


稲作と長江文明の誕生

 気候も、住む場所も変わり、今までの狩猟採集だけでは生活できない…そこで人々は、自分達が食べるための植物を育てる事、即ち農耕に取り組むようになります。その中で最も成果を上げたのは、華中地方(長江中流域)湖南省のミャオ(洞庭湖という湖の周辺に住んでいた)を中心とする、江南地方の少数民族でした。気候の温暖化により、江南地方には照葉樹林が広がっており、そこで彼らは焼畑農耕を営んでいました。特に長江中流域の湖南省は、照葉樹林文化の中心である「東アジア半月弧」の東端に位置し、海没した華東海平原から脱出して来た人々もおり、自分達の命運を懸けて、新しい技術を生み出す希望に満ちていました。

https://www.allchinainfo.com/map/asia-china/chinadist_city/

 そして8000年前頃、こうした江南少数民族らの手によって、長江の中流・下流域において、ジャバニカ米(熱帯ジャポニカ米)を栽培する水田稲作農耕が始まりました。このように、江南地方のミャオ族ら少数民族が、照葉樹林の自然環境と交流しながら、食生活を「採集・栽培(レベルⅠ)→焼畑(レベルⅡ)→稲作(レベルⅢ)」へと発展させる中で育んだ習俗、それが照葉樹林文化です。

 稲作文化を発展させた江南少数民族は、次第に都市的な集落を各地に築くようになります。それが(華北の黄河文明より古い可能性がある)長江文明であり、華中(長江中流域)湖南省や華東(下流域)浙江省などで遺跡が発掘されました。

 当初、長江流域で発明された稲は「ジャバニカ米」で、その後、稲作が北方へと広がる中で「温帯ジャポニカ米」が生まれたようです。また、照葉樹林より暑い地域では、これらとは別種の「インディカ米」が発明されました。


縄文時代の西日本に照葉樹林文化が伝来(縄文前期・中期)

 縄文時代前期・中期(6000~5000年前)特に前期は、地球温暖化が特に進んでいた時期であり、日本列島にも照葉樹林が生い茂りました。とりわけ(今も昔も)温暖な西日本には、採集・栽培を中心とする照葉樹林文化(レベルⅠ)が広まり、漆器の制作も始まりました。但し、まだ稲作は伝わっていなかったようです。


東日本には楢林文化が伝来

 一方、長江流域よりも北の地域、即ち東アジア北部の「華北(黄河流域)・満洲・北朝鮮・ロシア沿海州・樺太サハリン・東日本」には落葉広葉樹林(楢林)が広がっており、この地域の人々が築いた狩猟採集・畑作文化を「楢林文化」と呼びます。この楢林文化は、東アジア北部から「高麗半島」「樺太→蝦夷島(北海道)」「日本海」などのルートを通って、東日本へと伝わったようです。

 つまり、縄文時代には、西日本に(南方からの)照葉樹林文化が、そして東日本には(北方からの)楢林文化という、南北から二つの文化が伝来したと考えられるのです。


気候変動・民族大移動と長江文明の衰退

 4200年前、再び地球規模の気候変動が発生し、世界各地の古代文明が危機に瀕しました。中近東では、雨が降らずに河川水が減ってしまう旱魃が起き、エジプト古王国(ピラミッド時代)や、メソポタミア(イラク)のアッカド王国が崩壊しています。

 長江文明も、気候変動と(それに伴う)再度の民族大移動で、急速に衰退してしまいます。こうして、再び故郷を失う事になった人々の中には、浙江省から九州に移住するグループも居ました。同じ頃、韓国から九州への移住などもありました。

 一方、長江文明の地に残った人々は、華北地方(楢林文化・黄河文明)から南下して来た人々と協力し、華中(長江中流域)湖北省に楚王国を建てました。楚王国は、長江文明の照葉樹林文化を受け継ぐ国家を営んだ後、紀元前223年(春秋・戦国時代)始皇帝の秦帝国(西北地方 陝西省)に併合されました。


日本列島における照葉樹林文化の発展(縄文後期・晩期)

 その頃、縄文時代後期・晩期(4000~3000年前)の西日本には、焼畑農耕を中心とする本格的な照葉樹林文化(レベルⅡ)が広まっていました。具体的には、焼畑のほか「茶・酒・餅」「漆・竹・絹」「歌・山」などに関する習俗が、照葉樹林文化に含まれます。

 このように、水田稲作農耕が普及する弥生時代より前の縄文時代から、焼畑などの農耕文化が日本列島(特に西日本の山地)に存在したと考えるのが、照葉樹林文化論の見方です。


稲作・金属器の日本伝来(縄文晩期・弥生時代)

 江南地方の照葉樹林文化・稲作文化は、青銅器を用いる文化と共に、雲南省(西南地方)から東南アジアへと広がり、韓国にも水田稲作農耕が伝わりました。

 こうした中で、縄文時代晩期(3000年前)遂に私達の日本列島にも、水田稲作と青銅器の技術が到来しました。中華大陸の稲作が、日本列島(九州)に伝わったルートは3~5説あり、要約すると下記のようになります。

  1. 「高麗半島→九州」の北方渡来説

  2. 「長江下流域→華東海→九州」の直接渡来説

  3. ジャバニカ米などが「福建→台湾→琉球→九州」へと北上した南方渡来(海上の道)説

 低地に水田を作るため、人々の生活空間は、山地から平野部に、そして台地から低地へと下りて行きました。こうして照葉樹林文化は、稲作文化を伴う最終段階(レベルⅢ)への発展を遂げたのです。

ヒジリ
「私達が『和風・日本的』だと感じる文化のルーツは、この頃までに生まれたものが多いようです」


統一国家の成立(大和古墳時代)

 そして、紀元後4~5世紀の古墳時代には、高麗半島からの影響を受けながら、大和朝廷(大王政権)による天下統一・日本建国が進められ、その様子は日本神話として語り継がれています。

メグミ
「百済王国(韓国西部)から漢字仏教などが伝わって来たのも、この時代だね」

 以上の歴史を要約すると、次のようになります。

  • 旧石器・先土器時代(氷河時代)から、日本列島には人類が暮らしており、私達とは異なる旧人類も居たらしい。

  • 気候変動と、それに伴う民族大移動が繰り返され、新天地を求めて日本列島に移住する人々が相次いだ。

  • 南方(長江を中心とする江南地方)から西日本に「照葉樹林文化」が、北方(黄河を中心とする華北地方)から東日本に「楢林文化」が伝わり、縄文時代・弥生時代の頃に、現代の私達へと繋がる日本文化が創られた。

  • 弥生時代に国家が誕生し、古墳時代に漢字・仏教が伝わり、飛鳥時代に「私達の国は『日本』であり、そのリーダーは『天皇』だよ!」と宣言し、私達の日本が建国された。

 ある日、突然「日本」が出来たのではなく、数千年(あるいは数万年)以上の永い歳月を掛けて、二つの海外(南方と北方)から日本列島に向かって、人々(私達の先祖)の移住が何度も繰り返され、日本という私達の国家民族文化が創られた…これが、照葉樹林文化の考え方だと言えます。普段、私達が使っている日本語も、北方系のアルタイ語(トルコ・モンゴル・満洲・高麗)と、南方アジア語などが混合した言語と考えられています。


照葉樹林文化の具体的な習俗

 歴史の話を終えた所で、私達の生活のうち、どのような習俗が「照葉樹林文化」に当てはまるのか、具体例を紹介したいと思います。これらは、日本だけでなく中華江南や、更に遠くヒマラヤ山脈(ブータン王国など)などにも見られる、広域に共通する文化です。


焼畑農耕

 現代日本ではほとんど見られませんが、縄文時代中期・後期・晩期から1960(昭和三十五)年頃まで、日本列島(特に西日本の九州山地・四国山地)では焼畑農耕が営まれていました。

 「焼く」と言われると環境破壊のイメージがありますが、伝統的な焼畑農耕は、森の神霊に「この土地を使わせて頂きます!」と祈りを捧げてから焼き、耕作後には充分な休閑期間を取って、森林の再生を待つようにしていました。つまり焼畑は、自然環境と共生する持続可能な農業だったのです。


茶・酒・餅

 日本人の食生活には、南方の照葉樹林文化に属する飲食物が多くあります。

 唐帝国の陸羽という人物(照葉樹林帯である湖北省・浙江省の人)が書いた『茶経』(760年頃)という本には、お茶の色々な飲み方が紹介されています。そして12世紀には、臨済禅宗の開祖である栄西が、江南の南宋帝国から(禅宗と共に)の種を持ち帰り、鎌倉時代の我が国に喫茶の文化が伝わりました。

 このほか、お餅を食べたり、麹菌でお酒などの発酵食品を造ったりするのも、照葉樹林文化の特徴です。


漆・竹・絹

 人間は、動植物を食べるだけでなく、食器などの道具としても加工・利用します。このうち「漆器の容器を使う」「養蚕して絹糸を織る」「和紙を作る」「琉球藍で織物を染色(藍染)する」などが、照葉樹林の文化です。

サギハラ
「この絹糸を中央アジアに運び、広大なユーラシア大陸を絹貿易で東西に繋いだのがシルクロードですね」


歌垣

 歌垣とは、即興のラブソングを異性と歌い合って告白するイベントです。運命の相手を真剣に探す未婚者から、ただ異性とイチャイチャ遊びたいだけの浮気者まで、色々な連中が参加し、花見・飲食・歌舞などを伴う「お祭り騒ぎ」だったそうです。ラブソングを即興で創り告白できるようになれば、あなたも立派な照葉樹林です。

ヒジリ
「(男女の交遊を伴うため)道徳的に乱れた側面もあったと思われますが、
本来は豊作を祈る農耕儀礼だったようです。『豊穣』と『子孫繁栄』が結び付いたのでしょう」


山岳信仰・羽衣伝説

 照葉樹林の宗教には、山は他界(あの世)の出入口であり、神や死者の霊魂が(故郷の近くの)山におられるという信仰があります。亡くなった人の魂は、遥か遠くの別世界に行きっ放しではなく、正月・お盆・彼岸などに帰って来ると信じられています。

メグミ
「日常生活よりも高い所(台地など)に神社・寺院、そしてお墓を建てるのは、照葉樹林文化的な習俗って事だね。あなたは(死んだら)どこの御山に入りたい?」

「うーむ…」

サギハラ
「さっき、ヒジリお姉ちゃんが説明してくれた歌垣も、山の上で開催される事が多かったそうです。これも、山を『普段とは違った体験を味わう事が許される、特別な空間』だと感じたからでしょうね」

 このほか、天女が地上世界を冒険してから天界に帰る羽衣はごろも伝説(七夕など)や、女神の死体からアワなどの五穀が生まれたという神話、あるいは洪水神話などの昔話も、照葉樹林文化の共通点だと指摘されています。

ヒジリ
「洪水神話は、華南地方の少数民族などに広く語り継がれているそうです。彼らは、縄文海進による大洪水などを目撃した方々の末裔かも知れませんね」


やっと結論

 現代の日本では、照葉樹林は失われつつありますが、神社などでは(樹木に神霊が宿るという信仰もあって)今も照葉樹林が残っている事が多いです。また、我が国における照葉樹林文化の最前線である九州では、日向ひゅうが綾川(宮崎県 綾町)の照葉樹林を、ユネスコ世界遺産のような形で保全する運動が行われてきました。

サギハラ
「東京・埼玉などの関東平野は、落葉広葉樹林が多いですが、もしそこに照葉樹林の台地があったら、それは縄文時代の名残であり、近くは海(縄文海進で海面上昇した東京湾)だった可能性がありますよ」

 この夏が終わり、秋が訪れても紅葉・落葉しない木を見掛けたら、その心を南西へと向けて、思い出して下さい。沈みゆく大陸から逃れ、文明の興亡を見届けながら、この日本列島へと辿り着き、土器を発明し、焼畑を営み、そして稲作(お米)を広めた、私達の先祖の記憶を。茶を味わい、恋を歌い、山の神霊に祈りを捧げた、先人達の心を。そして、その心は中華江南地方だけでなく、遥かなるヒマラヤ山脈の人々とも通ずるものであるという事を…。

メグミ
「私達は、忘れないよ! この夏に、この森で観た、神々と祖霊の旅路を…!」

サギハラ
「はい! さあ先輩、あたし達もお祭りに行きましょう! 今年最後の夏祭、最高に楽しみましょうね!」

 晩夏の歌垣へと歩み始めた時、私達の体に風が吹き付けました。アジア南東部を貫く、季節風の末端でしょうか。それは、遠くヒマラヤから江南を通って、そのルーツを私達に伝えようとする、祖神の声だったのかも知れません。


 参考文献

  •   『栽培植物と農耕の起源

  •  『照葉樹林文化 日本文化の深層

 『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流
  • 照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ

照葉樹林文化とは何か 東アジアの森が生み出した文明
  • 秘境ブータン

  • 日本人の誇りを伝える最新日本史

  •   『「日本」のはじまり 考古学からみた原始・古代

 お読み下さり、ありがとう御座います。東京の大森・蒲田(大田区)出身、2023(令和五)年よりDAC横浜に所属。大学などでの探究を表現する「地球学(地理学文芸)作家」を志し、夢小説ライトノベルを創っています。物語の主人公は、本書を御覧の「あなた」自身です。アイコン画像はhttps://waifulabs.com/にて生成しました。

2023(令和五)年8月23日(水曜)
デジタルDアートAセンターC横浜(アキラ

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