思い出は歌の中に
私の世界が私にもどる時は、私はいつも歌の中にいる。
ここは場末のスナック。
私はいつも通り開店準備をして、持ってきた紅茶を温めてブランデーを滴らし、少し混ぜてそれを静かに飲んでいた。
冬はお店がよく冷える。
ママはお店のお酒は好きに飲んでていいよというスタンスなので、お店が温まるまで、最近はこれをよく飲んで身体を温めていた。
カップに添える手がカップの温かみで温もっていく。
両手で包むようにカップを持ち、指先を温めながら小さく吐息をはく。
雨は降らなくなった。
もう雪の降る季節。
雪の日は、本当に静か。
雪が世界の音をさらってしまうのか、シンとした夜に無音で雪が積もっていく。 たまに車の通る音だけがして、このスナックの周辺は本当に音がなくなる。
今日はお客さんは来るのかしら。
雪の日は本当に客足が読めない。
雪の中、身体に雪をうっすらと積もらせて入ってくる団体客が来たり、はたまたぽつりぽつりとお客さんが入って来たりこなかったり。
こんな日は待機時間が長くなったりするから、お店の念入りな掃除がひと通り終わってから、ひとりで歌ったりする。
私は歌うのが特に好きってわけじゃなかった。
お客さんによく歌をリクエストされるので、初めは仕方なくマイクを持った。 褒めてくれる人はいるけれど、あんまり上手いわけじゃない。
ただ、歌っている時は、世界がカチリと、私にハマっていく感じがした。
側に見ていた世界が、私に戻ってくる気がした。
歌はいい。
少ない時間で物語が完結するし、歌い終わった後の達成感がある。
自分をうまく伝えられない私でも、人の詩や音で私を伝えることができる。
とりあえず、誰に聞かせるわけでもないので好きな歌を歌う。
ちょっと暗めの歌詞の歌、あまり盛り上がりのない曲調の歌。
お客様に聞かせる向きではない歌。けれど大好きな歌たち。
カランカラン・・・
歌がちょうど途切れた時、ドアが開く音がした。
「冷たい!」
「あら、田中さん。」
肩に薄く積もる雪を払いながら、常連の田中さんが入ってきた。
田中さんは何故か、天気が悪い日を中心に来る、ありがたいお客さん。
「今日は気分が乗ったのかい?」
コートを脱ぎ、コートの雪をバサバサとはらいながら田中さんはニコっと笑った。
「あらやだ。聞こえてたの?」
先程まで歌っていたのが聞こえたのかなと合点がいき、私はこたえた。
「好きなものには耳が惹かれるさ。」
「あら、お上手。」
田中さんはいつも私の歌を褒めてくれる。
何がいいのかはわからないけれど、何となく、私が歌っている時のカチリとした世界を、田中さんもみてくれている気がする。
「今日は冷えるから1杯目はホットワインでもいかがかしら。」
「いいね。2杯目からはいつもの水割りで。」
「わかったわ。」
ワインをグラスに注ぎ、レンジで軽く温める。
このワインは少し甘めでフルーティだから、飲むと気持ちが落ち着く。
「今日は私はもうたくさん歌ったから、あとは田中さんが歌ってよ。」
「うーん。俺、あまり自信ないんだけどな。」
「上手よ。声だけは綺麗。」
「声“も“綺麗だよ俺は。」
田中さんはそう言いながら、出したばかりのホットワインを口にした。
「美味しいねこれ。」
「ママが気まぐれで出し始めたみたい。私も好きなの。」
「身体が本当に温まるよ。」
「気に入ってくれて良かったわ。」
「せっかく、つやこが歌っていたのに…もう少し早くきたら良かったな。」
「田中さんは本当に私の歌のファンね。」
「つやこのファンだよ。」
「あら、お上手。」
田中さんはそう言いながら、カラオケのリモコンを手にし、デュエット曲を表示させるとニコっと笑った。
「今日は一緒に歌おう。」
「いいわね。この曲好きよ。」
今日も場末のスナックの時間は、穏やかに過ぎていくのだった。
・執筆 かおすけ
・©DIGITAL butter/EUREKA project
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