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09

 4月も後半になった。

 何もない日曜日を過ごした千歳は月曜日の朝、学校へ登校するのだった。

 東京の街並みは一様に灰色だが、街路樹が整備されているところは若干あり、そこに生えている葉は桜ではなく既に若葉だった。

 5月の足音が聞こえ始めていた。

 街ゆく大人たちは忙しそうに通勤していて、その列に千歳も加わるのだった。

 こうして大人と一緒に歩いていると、ブラックコーヒーを飲んだ時よりもはるかに大人の感覚を味わえるのだが、なぜだか、大人たちは生き生きとした顔をしている。

 千歳の考える大人というのは輝かしいものではなく薄汚れた存在に思えていたが、実際の大人はこんなにも笑顔なのだな、と思った。

 これが意外だった。

 自分の好きな仕事ができて充実した毎日を送れているのだろう。

 そして千歳だけが、今は死んだような表情と目をしている。

 クラスメイトにも百々にも見られていないこの時間だけが唯一死んだ顔ができる時間だ。

 連日の仕事と別の仕事で忙しかったのか、それともやはり精神に来るものはあるのか、千歳のストレスはかなりひどいものだった。

 それでもお菓子を食べコーヒーを飲みやり過ごしている。


 特別支援教室に到着して自分の席に着くと、千歳はあたりを見渡すでもなく黒板を凝視した。

 まあ、月曜日の精神状態を考えればそれが関の山であるのは言うまでもない。

 そしてやはり榛が一番最初に着席しているのを見ると、相変わらずだなあ、と思うのだった。

 そしてクラスメイトが次々に入室してくる。

 最後に唯が入室して、千歳の席にだけ赤い花を添えるのだった。

 千歳
「これ、どういう意味なんだい?」

 
「あなたに無償のアガペーを、と思いまして」

 千歳
「そう、どうもありがとう」

 
「お花は好きですか?」

 千歳
「いいや、花より食べ物のほうがいいかな。お米とかじゃなくて、多少贅沢な食事ができれば最高だよ」

 そうだな、実のところ、臨時収入があれば普段食べているものを10食ではなく飛び切りおいしいものを一品食べてしまうのが人間というものだ。

 
「千歳さんはお昼ご飯を食べないんでしたっけ?」

 千歳
「最近はどうしてか、四季さんが奢ってくれる。だから食べれてる」

 
「そうでしたか」

 千歳
「別に何か奢ってくださいとかそういうわけではないですけど、貧しい身だと乞食の根性は身に付いてしまいますね」

 
「素敵ですね。人の中には傲りが邪魔をして素直に助けを乞えない人もいるのに」

 唯はそこを長所と見るか。

 人のいいところを探すのが得意そうだな。

 千歳
「まあ、そういう人もいますね」

 
「何か困っていることがあったらぜひ私に教えてください」

 千歳
「……生きていて楽しくなくて困ってます」

 
「そうでしたか」

 千歳
「ああ、いや、今のは嘘。いきなり仕事が始まって混乱してて、気持ちの整理がついていないのかな? しばらくしたらこの日常にも慣れるよ」

 
「ならいいのですが」

 千歳
「はい、平気です」

 
「本当ですか?」

 千歳はこの時、何がとは言わないが唯には見透かされているなと感じ、素直に言うのだった。

 千歳
「最近は忙しいのでヘラヘラリですね。やるせないですよ。まあ、家に帰って眠れば平気なんですが、眠っている間の時間だけが救いで、それ以外は割と苦痛な時間ですね、はい」

 
「それは大変ですね。学校に通っても楽しくないのですか?」

 千歳
「楽しいとか楽しくないとか、そういう次元に到達してないですね。ひたすら作業をやっている感じで。ゾンビのように生きています」

 
「そうですか、よろしければ、もっとお話をお伺いできませんか? あなたを、救ってあげたいです」

 千歳
「いや、いきなりそんな。それはもう少し仲良くなってからにしましょう。唯さんも大変でしょう?」

 
「いえ、私は別に」

 千歳
「いいですから、どうぞご自分を大切に」

 
「…はい……」

 朝の会話はぎこちない形で終了した。

 そして朝のホームルームが始まり、午前の授業を終え、午後になり、千歳は帰宅した。

 授業風景は実に退屈なものだった。

 それぞれの学力がバラバラなのか、先生は最低限の学力を生徒たちに与えようとしている。

 授業の内容は千歳が既に知っていることも混じっているし、わざわざ受ける意味がないんじゃないかと考える時もある。

 しかしながら、授業から勝手に抜け出すというのもよくないことだなと思っているので、千歳はやる気が起きないながらも先生に許可をもらって自分の学習を教室で一人進めるのだった。


 家に帰ると、早速今日の業務を始めた。

 相変わらず篝は船のデータを持ってくるのかな、と思いながら、それから榛に解らないことを教えながらかな、と思ったり、梓とは変わらず他愛のない話でもするんだろうかと思い、四季にはお昼のお礼を言い続けたりするんだろうかと思いながら。

 仮想現実に降り立つと、千歳より先に唯が現れていた。

 千歳
「こんにちは。さっきぶりですね」

 
「そうですね」

 千歳
「なんだか朝は、申し訳なかったですね。暗い話をしてしまって」

 
「いいんですよ、あなたのためですもの」

 千歳
「唯さんはいい人ですね」

 
「ありがとうございます」

 千歳
「疲れませんか? そういうの? 自分は受け入れられますが、誰にでも優しくしていたら思うところもあるでしょう」

 
「え、特にないのですが」

 千歳
「そうですか」

 どうやら唯は正真正銘の聖人らしい。

 千歳の一番苦手なタイプだった。

 まあ、千歳は1枚も2枚もかぶった人間だ。

 そういう相手に100パーセントの善意を向ければ、嫌悪される場合もあるだろう。

 千歳は持ち前の演技力であまり好きではないことを隠しているのだが、いつか見破られるだろう。

 唯はそういう相手だ。

 
「ふふっ、千歳さんはお優しいのですね」

 千歳
「そうだね、なるべく人に優しくしようとは思ってる」

 
「そこは私と一緒ですね。千歳さんとは気が合いそうです」

 千歳
「えーっと……ごめんなさい、自分は一枚被ってて、人に優しくしているのは処世術といいますか、純粋無垢に、人に優しくしているわけではありませんよ」

 
「そうなんですか?」

 そうだな、心が温かいから人に優しくしているわけではなく、合理的な判断の上で人に優しくしているタイプだ。

 それでも、優しいことに変わりはないんだけどな。


 そんな話が続きながら、今日の仕事が始まった。

 今日の仕事は普段と変わらないパトロールだった。

 今日は唯と一緒にパトロールすることが決まり、千歳は唯と一緒にさっきの会話の続きをするのだった。

 その日の警備のルートは美術館の周りだった。

 
「千歳さんは無償の愛を信じますか?」

 千歳
「なんだい、いきなり」

 
「千歳さんがどのようなお考えなのか知りたいので」

 千歳
「無償の愛は、まあ学生だから信じてもいいのかな? 教育だって無料で受けられてるわけだし、そういう意味では無償の愛は受け取ってるよ」

 
「そうですか」

 警備をしている美術館周辺には様々な絵画の展示が行われてた。

 どれも現地まで足を運ばずとも仮想現実で入場料さえ払えば見ることができるようになったものだ。

 AIが描いた絵も展示されており、見る人はそれを見て自由に何かを感じることができるようだ。

 それから、仮想現実上に再現されたノートルダム大聖堂もある。

 昔火事が起きて今はもうないそうだが、こうして仮想現実にデータが残っているのだ。

 多分、この仮想現実は探せば京都の神社仏閣群からラスベガスのカジノも存在するんだろうな、とも思ってみた。

 
「千歳さん、せっかくなので入ってみましょうか」

 千歳
「はい、いいですよ」

 二人は聖堂の中に入った。

 千歳
「綺麗ですね」

 
「はい」

 千歳
「唯さんはこういうのが好きなんですか?」

 
「あ、いえ、好きというか、キリスト教徒なので、教会のことについて詳しいだけです」

 千歳
「へー、そうなんですか。戒律とか厳しかったりしないですか?」

 
「キリスト教の戒律はそれほど厳しいものではないですよ。それよりも博愛だとか隣人愛だとかそういう精神の方が大切だったりします」

 千歳
「へー、面白いですね」

 
「だから、千歳さんにも隣人愛をあげるつもりです」

 千歳
「そうですか、それは助かります」

 
「だから、何か困ったことがあれば遠慮なく言ってください。私が助けてあげます」

 千歳はどうしてこんなことを言われているのだろう?

 何か布教でもされるのかと思ったが、唯からはそんな感じはしない。

 単純に千歳の力になりたいだけだろう。

 だからこう尋ねてみる。

 千歳
「どうして、そんなに親切なのですか?」

 
「先生から聞きました。千歳さんのご両親はいなくて、妹さんと二人暮らしだって。これは厳しい家庭環境ですよ。だから、助けてあげたいんです」

 千歳
「あ、いえ、そんな。唯さんだって自分の人生があるのに、自分たちなんかのことを気にかけちゃっていいんですか?」

 
「当たり前ですよ。だって千歳さんは私の隣人なんですから」

 唯はノートルダム大聖堂の天井を指さした。

 
「あれを見てください。昔、フランスにあった聖書の世界を表す絵画です。昔は文字を読めない人も多かったので、絵によって聖書の世界を表そうとしているんです」

 千歳
「ふーん」

 
「きっと千歳さんにも神様の加護がありますよ、大丈夫です」


 今日の業務が終わると、千歳はVRゴーグルを外していつもの真っ暗な部屋に降り立つのだった。

 仮想現実でさえ唯はありふれた愛をくれる。

 ああいう人がまだいるんだな、そう思うと千歳の心は癒された。

 夕食の場では百々がまたスーパーのお弁当を用意してくれるのだった。

 百々
「お兄ちゃん、今日のお仕事はどうだった?」

 千歳
「いつも通りかな? 見回りをして終了。そんな大したことしてないよ」

 百々
「いつもみたいに単調な作業の繰り返し?」

 千歳
「そんな感じだね」

 百々
「私、もうすぐ学校で仕事が決まりそうなんだ」

 千歳
「ふーん、どんな仕事?」

 百々
「芸能関係とかネットの配信。結構面白そうでしょ?」

 千歳
「へー、華がある仕事じゃないか。百々にはそういうのが向いてるのかな?」

 百々
「うん、先生も百々ちゃんはそういう仕事の方が輝けるって言ってた」

 千歳
「へー、先生も百々がどういう人なのかちゃんと見てくれてるんだね」

 ただ、それだけの会話をする。

 千歳
「お菓子、まだある?」

 百々
「うん、まだあるよ。最近は学校で忙しいからあんまり食べる暇ないだけだけどね」

 千歳
「忙しい、か。俺も忙しいよ。自宅に戻ったところで仕事だし、友達と遊ぶ暇もない。せめて、授業の合間くらいは仲良くしたいとか考えちゃうかな」

 百々
「うん、お兄ちゃんって優しいんだね」

 千歳
「違うよ、優しさしかアイデンティティがないだけだよ。いや、この話は百々にはまだ早いかな?」

 百々
「うん、よくわかんないや。もっと楽しいお話ししようよ、お兄ちゃん」

 千歳
「そうだなー、仕事場の同僚で、やたら親切な人がいた。そういう生き方は疲れませんかって言ったら、全然疲れないってさ。いわゆる聖人というやつだろうかと思っちゃったね」

 百々
「聖人ってどういう意味?」

 千歳
「聖なる人、高潔な人、崇高な人って意味かな? 偉い人が偉そうにするとかそういうんじゃなくて、人として尊敬できるとかそういう次元の人」

 百々
「私からしてみたらお兄ちゃんも素敵な人だよ?」

 千歳
「そうかもしれないけど、上には上がいるんだよね。将来は障碍福祉の仕事とかしてそうな、善良な人だよ」

 百々
「あはは、そっかー」

 千歳
「俺の学生生活はそんな感じ。周りはいい人だらけなので素直に助かってる。中でも一番悪い人なのは俺かな?」

 百々
「え、どうして?」

 千歳
「日頃のおこないかな? あはは」

 百々
「あははは」

 千歳は息をのんだ。

 本当に善良な人ばかりで、自分のような人間が彼女たちに関わっていいのか、それが気がかりだった。

 確かにどこか足りない人たちだが、千歳が抱える欠陥ほどではない。

 千歳は百々の笑顔を見ると、今日は眠るという選択をするのだった。

 唯の優しい声を聞いた後の眠り心地は最高のもので、千歳のような人間にも慈悲が降り注ぐのだなと思うと、そこまで悪い気もしなかった。

 今夜はぐっすり眠れそうだ。



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