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マニュアルフォーカスの官能

 ピッとやってパッと撮る。
 半押し、親指フォーカス、なんとも便利な機能だな、と思う。正確さはともあれ、一眼レフのあのオート性能は、決定的瞬間という意味を、違えてしまった、そのくらいの機能だと僕は思う。

 僕の初めてカメラはα7000 ミノルタのオートフォーカスカメラだから、マニュアルでフォーカスを合わせないといけないということを知らないままできた。

 のちに手に入れたフィルム一眼レフのOM1や PEN Fでは、マニュアルフォーカスの難しさばかりが先に立った。譲ってもらったライカM3でも同じように感じていたところがある。要はきちんとピントが合っているかどうか、すぐには確かめられない不安があったのだろう。まだオートフォーカスがあるカメラが当たり前という感覚で、それがないことの難しさばかりが感覚に残った。

 ちなみにOMのコンパクトさはすごく気に入っていた。あれは傑作だと思う。手の小さい自分にはとても馴染む大きさ。ライカM3と感覚的には同じ握り心地があった。

 何にしてもオートフォーカスは便利だ。f1.2といった明るさでもピントを合わせてしまう。ピッとやってパッと撮る、なのにすごい背景のボケた一枚が出てくる。

 が、それが写真をつまらなくしてしまっているな、と感じることもある。


 写真展をしたときに、観に来てくださった同僚の方が、一枚の写真に指を指した。彼は長らく写真を趣味としている方で、御年60を迎えたくらいのニコン使い。彼は指差した写真に対して、ピントの合っているところがない。と指摘した。
 これは意図的かね? そう尋ねてきた。
 正直に言えばそれはオートフォーカスが間に合わないまま、シャッターを切ったものだった。東京の下町の歩道橋を降りてくる学生、その背後に太陽の光、あと数段階段を降りてしまったら、太陽とのバランスが崩れてしまう気がして、親指フォーカスをしながら間に合え!と祈りつつ、ピントが合っているか合っていないかも確認せぬまま強引に人差し指を押し込んだのだ。
 結果は、全くどこにもピントの合っていない一枚になってボツにしたのだった。


件の写真。2012年のころだった。よく見るとピントが背景に抜けてる。つまりピントは一応合っている、ところがある、ことにはなるのか。


 が、しばらくして、そのシルエットでしかない一枚が気になりだした。
 これはこれでアリなんじゃないか。
 何かが写っているわけではない。
 歩道橋を降りてくる青年のシルエットと太陽の光、それだけなのに、妙に忘れられない。

 だが、これは意図して撮ったものではない失敗写真だ。

 意図的ではないですね。フォーカス間に合わなくて。

 そう答えたと思う。

 でも、という言葉を継ぐことができないうちに、その同僚は言った。

 写真はどこかにピントがないとダメなんだよ。

 まあ、そうだろう。それはそうだ。そうなんだけど、それでもここに飾ってしまいたかった。光とシルエットだけの絵画のようなその一枚をそこに飾りたかった。だけど〜でなくてはダメだという言葉は人を縛る。そうかやっぱりダメなのか、と思うしかなかった。

 フォーカスはその自分が見ているものにピントを合わせる。だからその瞬間を写しとるためには、ときに爆速のフォーカスが必要になる。

 でも、と思う。
 「そこ」に合わせることが、本当に重要か、と。決定的瞬間がその場に生じる、それに気づいてカメラを構える、ピントを合わせる、シャッターを切る。こうして書いてみると、すでに決定的瞬間からは、どうしてもコンマ数秒でも遅れてしまうことになる。それよりはその瞬間の印象を逃したくはない。そのためには、予想をしてカメラを構えるか、絞りを絞ってパンフォーカスにし、常に構えておくか、あるいはピントが出鱈目でもシャッターを切るしかない。と、すれば、ピントが合わないとシャッターが切れないというのは利点でもあり、難点でもある、そういうことにならないか。そして難点だとしたとき、僕らがやるあの半押しは、ともすればピントを合わせるのではなく、合わせさせられている、そんな意識に転じてしまうのではないかとすら思うこともある。私たちは常に決定的瞬間から遅れているのだ。

 いや、やはりピント合わせは重要だとは思うけれども。でも、そこがいちばんじゃない。

 屁理屈を捏ねれば少なくともどこかにピントはあるのだ。たまたまそこに見ることのできる物質がないだけで。空気まで写ると言われるレンズがあるのだ、ピントだって空気に合わせたっていい。
 屁理屈が過ぎる…。

ピントは決断。だから撮影者の意識がそこに現れる。それをマニュアルでやることは決断のための時間を丁寧に扱っているようにも思える。

 それはさておき、マニュアルはピントを合わせづらい。だから肝心なときにピンボケを連発する。子どもは動き回るから、ばっちりピントを合わせたものが撮れない。ここ!というときにフォーカスを逆に回していたりして残念なこともある。それでこれがオートだったらと思うことも正直しばしばある。だが、そのしばしば、の総数比率はそこまで高いものでもない。

 自分が撮るものの内容のためでもあるが、その多くが、素早いフォーカスを必要としないものだ。じっくりと被写体に向かって設定を整えるような風景写真、というわけでもないが、街中を歩いて気になったものがあったら撮る、という感じだ。
 そのとき、オートフォーカスだと、ピッとやってパッと撮って、それで通過することになる。そこをこのマニュアルフォーカスというのは、一旦停まれと、命令する。ちゃんと見ろ、と指示をする。ほら、こいつ面白いだろう、と唆す。撮るのかい?撮らないのかい?どっちなんだい?と問い詰めてくる。そうしてファインダーを覗く。その中はずっと同じ絵が切り取られているわけだが、カッコつけて言えば、その静止映像のなかにも、決定的瞬間はあるのだ。

 ピントを合わせて、呼吸を止めて、なんとなくその動かない被写体に、ここ、という瞬間を見つける。そのときにシャッターを切る。


桜の花びら。舞う様子を撮りたくてでもどこにどうしたらいいか分からずピントリングを適当に回した。

 カメラは覗き見る、そして切り取る装置だから、基本は外野の存在である。だから決定的瞬間とは、常に自分の外部に合って、だからそれをうまく撮ったときの高揚は計り知れない。それはよく分かる。別に大事件でなくとも、街中を通りゆく人の色の組み合わせとか、変なポーズになった一瞬とか。
 けれども、そら、くるぞ!と予測を立てられないものに対して、あ!となったときにはもう、シャッターは遅れているのだ。だからそれを決定的瞬間としてものにした人は凄い、本当にすごい。僕はオートフォーカスでもうまくやれない。でも、そうやって起きたことに追いつこうとする、あくまで被写体主体の撮り方ではなくて、その被写体と私の関係性のなかでシャッターを切るという意識は、必要な気がする。そうしてそのとき、マニュアルフォーカスでピントを追い込んでいくのは、被写体と私の関係を繋ぐ作業のようにも思うのだ。それがある意味での決定的瞬間だ、と一人満足してもいいのではなかろうか。

鳥を撮ろうとして間に合っていない。露出も。でも嫌いじゃない。

自転車に合わせるか、ガラスに合わせるか、ガラスに写る自転車に合わせるか。
霧に?木に? 

 かと言って別にオートとマニュアルの両者に見た目の違いが出るわけではないかもしれない。ボケてしまっていたとして、それはどちらもちょっとピンボケ、に過ぎないだろう。とすれば、やはりそれはおおよそ、自己満足の世界でしかない。むしろこの一枚にボクのキモチを込めました、なんていうのは気色悪いとすら思う、自分でも。
 けれど、なにも考えず撮った写真、それはもうただの記録に過ぎない。それがいいと思うこともある。自我を極力介さない、客観的な目線で世界を見る。世界は自分のものではない。自分は世界の外側にいる、そんな写真だ。でも一方で、写真が写すのは何も目の前の光景だけではない。被写体のココロだけでもない。作品としての写真はやはり撮り手の自我が絶妙に見え隠れしたもののほうがおもしろい。

 そうでなければ、AIが生成した画像と何が違ってくるといえるだろう。
 人工知能が作った画像がコンテストで受賞する時代である。それは人の意思まで計算して絵作りできるようだ。撮り手の気分までAIは表現してしまうのか、僕らは手仕事への価値を見失っていくのか、いや、別にそんなこと考えずとも、マニュアルでピントを合わせていくその官能的でさえある楽しみを、僕はもっと味わいたいと思っている。


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