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ブロンプトンとライカの共通点

 カメラからの自転車と、趣味の範囲を広げたタイプなので、カメラ機材の方がメセナを費やしています。が、自転車もそれなりには費やしてる。
 そして今はもっぱらブロンプトンに乗っている。


 はたからみればアホか、と言う金額を費やしているわけだけど、そのアホになってしまった今となっては踊る阿呆に見る阿呆、どうせ阿呆なら、という心境である。

 以前、ギズモードさんのブログに、ブロンプトンは自転車のライカなんですよ、って唆されてブロンプトンを買った話が掲載されていた。



 たしかに両者には共通点がある。
 分かりきっているって話さ、となる方も多いだろうけれど、ちょっと手慰みに挙げていこうと思う。

高い

 いきなりお金の話ですみません。

 どちらも高い。ただブロンプトンの高さは小径車の中だけで見ても、モールトンなど上がいる。ロードバイクや軽快車の部類に入るだろうバンムーフなども含めたら、高いと言っても実はそれなりだと言うのが自転車の恐ろしいところだ。
 ライカはほぼ最高の高さの部類。ハッセルとかあるけど。それより高い。そしてここ最近、国産のカメラも少しずつライカに近づいているような気がする。とにかく車を一台買う勢いだ。ブロンプトンは原付を買う勢い。ライカに比べたらブロンプトンは安いとも言える。
 あ、うん、いろいろ狂っていますね。
一応自分のライカは中古品ということで、故障したら恐ろしいことが待っています。

値上がりし続けている

んですよ。以前ズミルックスは十万台で買えたと聞く。ほんとかよ。ノクチルックスなんかもここまでの金額ではなかったそうだ。
 ブロンプトンもちょっと前は諭吉20人も必要なかったそうだ。たしかに自転車始めた頃に見かけたブロンプトンのプライスタグは今の値段じゃなかった。
 昨今の状況もあるだろうし、各国の労働環境改善なんかも影響あるだろう。まだ高くなりそうで、買いたいと思ったその日が最安値!なのかもしれない。

かっこいい

 ライカのフォルムを見てカッコ悪いと言う人は少ないと思う。一定数いるとは思うけど。そのかっこよさってのはつまりはモノとしての美しさを指すのだけど、国産マニュアルフィルムカメラにもそれに通じるところはあるように思う。ノスタルジーとかそんなことではなく、当時のプロダクトのそっけなさがカッコいいのだ。それが今の国産デジカメにはさまざまな配慮がなされていて、あのカタチになっているわけだ。カッコ悪くはない。でも何故かカタチには惚れない。
 その変化は今の車に似ている。つまりライカの良さとは、他のカメラがさまざまな進化によって失ったかっこよさなのだろう。たとえば車のハンドル。あれ、昔はカッコいいものに交換できてたんだよね。今はエアーバックも付いているからできないわけで。
ブロンプトンもカッコいい。黄金比をしっかり守っている感じ。それこそローバーミニのような小粋な感じがある。

細部が不恰好

 台湾製ブロンプトンに乗ってみたとき、こりゃあかんと思った。細部がダサい!なんだ、この切り替えは? サドルが垢抜けてないぞ? MハンドルのMが極端すぎやしないか? とまあ、色々と出てきて買うまでには至らなかった。それから当時の最新バージョン、つまり自分が買った年のものに試乗することになるんだけど、今書いたようなところはほとんどブラッシュアップされていて気になるところはなくなった…わけでもなく。ハンドルのグリップとか、後部の折り畳み時のクッション部分とか、やはり細部に気になるところがある。が、まだ、結局カスタムしてないけれど。
 ライカも同じで、 赤いロゴマークはまだ許せるとして、typ240のMの文字の刻印はやっぱり嫌だ。型番があればまだ格好がつくんだけど、Mだけって、マゾですと言っているようなものではないか。


機能満載ではない

 ブロンプトンのギアは6段の場合、内装3段と、外装2段という変則的な組み合わせ。というか6段ですよ。昨今の折り畳み自転車なら、こだわりがない限り8段とかは当たり前。ミニベロなら前が2段の後ろ9段とかもあるわけだ。段数があるということは、それだけ状況に応じた重さでペダルを回せるということ。となれば、ブロンプトンはむしろ乗る側が自転車に合わせなくてはならないということになる。

 ライカも同じく、カメラにこちらが合わせなくてはならない。フォーカスはマニュアルで、気の利いたオートモードなんかなく、せいぜい絞り優先で撮れるくらい。ピントも二重合致式は合わせづらいシーンがあって、夜間だともはや苦行かというくらい。
 ただ、そこになんとも言えない自由を感じるのは何故なんだろう。先程、こだわりという言葉を書いたが、この2つはこだわりのかたまりだ。できないこともまた、こだわりになるのだ。


どこかに一点特化

 そんなないないづくしのような両者だが、その分特化した部分もある。

ライカなら、そのファインダー機構に。

ブロンプトンならあの完璧なまでの折り畳み機構に。

 どちらもなんでもできるというタイプではない。でも、どこか一点で、それらできないことで残念、となる部分を凌駕する魅力がある。

 ライカでなくても、ブロンプトンでなくても、それをすることは可能だけれど、ライカやブロンプトンでそれをしたい、となる。そういう魅力があるのだ。


少数生産

そこまで多く生産されているわけではない。

できない、という認識だけれど、

やらない、のかもしれない、ほんとうは。

やらないにしろ、できないにしろ、そうすることで、物の価値をあげる、というのも手なのだと思う。

クラフトマンシップに溢れる

 ライカも折に触れて、その工場内で如何に職人さんがいい仕事をしているのか、という記事を見ることができるし、ブロンプトンの以前の広告写真もまた、職人さんが溶接をしているところだった。

 私たちは「職人の手による」という文言が好きだ。

 かといって、機械で生産されたものが悪い、というわけではないことも知っている。大量生産されたものには大量生産されることでの良さもあるだろう。それは価格だとか、均質性とか、そういうところに表れる。

 だから手仕事での均質性って、そうとうすごいことだとも思う。



こちらが合わせるしかない。

 前の項目でも書いたが、ライカもブロンプトンも、それらができないことを人間が補足しなくてはならない。

だが、それが楽しい。

 両方とも高い買い物だが、その経験を買っているのだとも言える。

 そしてたぶん、その経験を買う人は、ふつう、こんな比較の記事なんか書かないだろうと思う。書いたとしても、もっとスマートに、さらりと、それらの良さを丁寧に書かれると思う。

 つまり、自分はそれらを使うにはまだまだ、ちょっと足りない人間なんだな。

 けども、そんな自分が感じることは、この両者に共通する、できないことを人間が補足する楽しみ、つまり面倒を楽しむということ。それは最高にいい趣味なんじゃないかな、と思う。


なんでも、は、できないを、買う。

 あまり関係のない話かもしれないが、自分の後輩に、墓を売る仕事をしている人がいた。彼は、若くして営業成績トップを獲り、その分お給料も良かったそうだ。歩合制の会社だったらしく、基本給を聞くと、自分ならすぐに辞めざるを得ないだろうな、と思う金額だった(今はなにをしているのかわからない)。彼の良さは、底抜けの明るさだった。いや、ちょっと乱暴な明るさというか、例えるなら、酒に酔ってちょっと周囲に迷惑行為をしていしまう感じの、でもいわゆるパーリーピーポーという言葉から連想するイメージとはちょっと違う感じ。夜中に酔って下駄履いて、ウチの家にきて、玄関のドアをたたきながら「せんぱーい!おきてんでしょ!」と叫び、中に入るなり、マーライオンになっちゃうような、そういう人だ。

 墓を売るということは、その人の、あるいはその人のための、人生の最期の買い物にかかわるということだ。だから、その人の連れ合いとか、親とか、そういう人の「話」を聞くことになる。夫とのこれまで、とか。彼は墓を買ってもらうかわりに、そういう知らない人の人生をひたすら聞いたのだそうだ。

 そんな彼がいつしかハマったのは、山だった。

 1人で山に行くのだった。それも日本アルプスとか、それ相応の装備が必要な山へ。

 絶対にそんなことをしなさそうな男だったのに、急に山に登って一人で一夜を明かす、そんなことにハマっていると知ったとき、彼の人生になにがあったのか、と思うのだった。いや別に何もなかったのかもしれないけれど。

 ただ、墓を売るという仕事をしているなかで、営業成績も良かった、そんな中で山と出会う機会があって、それが妙に肌に合って、ハマっていくという過程には、ライカやブロンプトンのちょっと不便だけれど、でもだからこそそれを使う面白さがあって、それを使っているときは他のことはとりあえず傍に置いていられる感じがあったのではなかろうかと思ったりするのだ。あちらは大自然で、規模感は全く違うけれども。

 規模を小さく?して書くと、こんなことも聞いた。学生カップルの2人。彼はアメリカ旅行中に9.11を経験する。テレビで見たのか直接見たのかは記憶も朧げだけど、おそらく後者だったはずだ。人生観が変わった、と、彼は彼女に言ったそうだ。
 そんな中で、彼女はアパートの自室で、魚を捌くことの面白さを覚えたのだという。自分のために捌かれる魚。日常の沿線で、切り身を買えばいいのに、魚を丁寧に捌くということがとても楽しかったらしい。彼が世界の大事件を目の当たりにしていたころに、彼女は魚を捌くという手間に喜びを感じていたのだ。

 いろんな趣味の中で、なんでそんなに面倒なことを。と思うものがある。でも、趣味だからこそさ、そういう手間暇かけていることが楽しいということもあるのかしらん、と考える。手間をかけているときは、日常から少し離れられる。便利だったり、手早いものだったり合理的だったりするものやことは、日常のなかであれば良くって。

 ライカもブロンプトンも高級なもの、身も蓋もない物言いをすれば、ひたすら高いものだ。しかるに、その分の何かすごい機能があるわけではない。なんでもできるわけではない。だから面白い。山が自分の思い通りにいかないのと同じように。ライカもブロンプトンもこちらが色々合わせようと工夫しないといけない。その工夫の度合いが他の同じものより少し多い。いや、山とはちょっとやっぱり規模感は違うけれども。
 でもそれこそがこの二つの共通点なんじゃないかな、そう考えてみる。手間がかかるのではなく、手間をかける。この2つは、手間をかけることが面白みにつながる、そういう類いなのではなかろうか。

 山の絶景を買うのではなく山を前にしている無力感を買う。

 ばっちりきれいな一枚を買うのではなく、うまく撮れない歯痒さを買う。

 どこまでも遠くに行く力とかはやく走る力ではなく、風を切る心地よさでもなく、移動にかかる時間を買う。

 美味しい食事を買うのではなく、そこに至る面倒を買う。

 買う買うばかり書いて金の亡者みたいだけれど、山の美しさ、ライカで撮る特別感とかそういうものでその良さを語るのではない、手間暇かけたくなることが魅力なんだ、そういう理解をしてみると、他の誰かの、はたからみたら、それ、何が楽しいの?という世界を、真っ直ぐに見つめられるはずだ。

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