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【小説】虚星のレイス 前日/後日譚

はじめに

演劇企画ヱウレーカ主宰、ならびに当戯曲の作者である、荒井ミサです。このnoteでは、舞台「虚星のレイス」の特典として配布した書き下ろしノベルを全編無料で公開しております。

しむじゃっくpresents 演劇企画ヱウレーカでの同公演配信不可に際し、ご期待いただいたすべての皆様、劇団・関係者各位を懇意にしているお客様へ、謝罪、ならびにご期待いただいていた気持ちに少しでも何かをお返しさせていただければと考え、当公開に至りました。
少しでもお楽しみいただけますと幸いです。

演劇企画ヱウレーカとは

演劇における何らかを企画する際の母体として、荒井ミサが設立した団体。架空国家「日ノ本」を舞台としたオリジナル脚本をもとに、ヒトと「しあわせ」をテーマとしたエンタメ世界を描く。特徴は確立された世界観と独特の節回し。

関連作品/情報

戯曲「虚星のレイス」 公式noteにて無料公開中
前日譚「竜宮の咎人」「竜宮の番」公式YouTubeにて無料公開中
ゲネプロ画像 公式Twitterにて公開中

◆◆◆◆◆

Ep.01 神睦月勅と幽天の場合

 夢があった。
 丘から見上げた満月の影。夜空を切るは成体の竜。長い爪に大きな翼、髪をたなびかせては、彗星の如く飛んでゆく。
 俺も、いつかあんなふうに。目を輝かせる少年の血は、どうしようもなく赤かった。

「ほんとに作ったの」
 姉貴分の差し出す布に、思った倍の声が出る。まさか人生で百人針を見ることになるとは思ってもみなかった。唖然とした神睦月勅へ、鬼児島中也は布をずいと押し付ける。
「当たり前!みんな頑張ったんだから」
 がしりとした布に似つかわしくない、シルクの白黒真逆の糸が、玉留めとなって列を成し、そうして大きな翼を形作る。白き翼の黒竜は、戦地へ赴く青年を守ってやろうと言わんばかりの凛々しい顔つきをしている…のだと思う。正直、彼ら彼女らの裁縫の腕は口に出せないし、こうも並ぶと怖いなと思ったのは言わないでおこう。
 冬の穹は、澄んで高い。空軍への招集を受けてから、出征までに残された時間は四日。一日は家族と過ごし、二日間は親元を離れる準備を進め、あともう一日は、世話になった人の元をまわった。死を覚悟した訳ではない。しばらく、もしくは今生の別れとなる可能性があるならと、顔を見ておきたかったのだ。正直性にあわない、しんみりさせるような真似かと思っていたのは自分だけだったらしい。皆、往々に変わらなかった。旱魃からは与太話を、川嶋と夜鷹からは翼のメンテナンス用品を選別にと握らされた。拍子は抜けるがその実どうして、変わらないことがありがたかった。姉貴分も、様子こそおかしいがいつものことだとこちらが開き直れる程度。手元の禍々しい布を除けばの話だけれど。
「…渋いな」
「イイでしょ、はじまりの竜よ」
 まだ生きてるらしいけどね、と鬼児島は笑う。二〇〇年以上を生きることもある、竜の永い命から見れば、己の相棒ですらそう、人の命は刹那的だと思ってもしまうものだろう。そうしてきっと幽天も、老いなど知らぬと空を翔け、ふと振り返って皺にまみれた伴侶に手を振るのだ。大事にしてよと背中を叩くライバルは、人の子は皺を刻み、ゆっくりと老いていくのに。
「人気者ねぇ」
「どうせ今だけだ」
 ファクームで人気になるのは、常に華型の竜だ。優れた伴侶が居たとしても、観衆は常に美しき竜を、その飛びざまを瞳に映すし、それはおかしなことじゃない。それはいつなんどきも変わらない。それを、俺たちは分かっている。

 姉貴分に別れを告げた青年は、街の外れにある小高い丘を、ゆっくり、ゆっくりと登っていく。子どもの頃、足繁く通って空を見上げたこの丘は、大人の足でも傾斜がキツい。貰い物を仕舞った袋も気付けばどんどんと重くなって、未練のようにも映りそうだと、ひとり鼻で笑った。あの太陽は、春は、彗星は、よだかの星は、夜に染まる竜達は、貰い物を、声援を、期待を、興奮を、背負ってそのくせ軽やかに飛ぶのに。自分ときたら、人間ときたら足を引き摺り重い腰をあげることしかできないのだと現実が指をさす。空を見上げてなんになる、そうして自然と目線が下に、下に落ちていく。
「勅だー!」
 瞬間、パッと顔が上がる。耳を劈く声の主は、丘の上で、翼を広げてなお地に足をつけたまま、自分の方へと手を振る。はち切れんばかりの笑顔にどうして、冬空の艶が走る。幼なじみは、幽天は、こっちへ来いと声を張る。

 夢がある。
 丘から見上げた満月の影、夜空を切るは成体の竜。長い爪に大きな翼、髪をたなびかせては、彗星の如く飛んでゆく。
 俺も、いつかあんなふうに。目を輝かせる少年の瞳に、どうしようもなく吸い寄せられてはや一〇年の月日が経った。
 きっと来ると思ってた、と胸を張る己を、パートナーは、勅は、べちんと叩いてみせる。口許の緩みが抑えられていないことは、自分だけの秘密だ。
明日はいよいよ、軍から言い渡された出立の日。緊張していないかと言えば嘘になる。だから、気付いたらこの丘の上にいた。初めてファクームに、空に、勅の瞳に、惚れ込んでしまったあの日あの場所、いうなら原始、はじまりの場所だ。飛ぶ練習はもちろん、迷った時、苦しい時は、いつでもここに来ていた。そして、それは相方も同じだと竜は知っている。
「飛べたらいいのにな、俺も」
 荷物を引き摺りながら、勅は頂まで登ってくる。袋の中身は見えないけれど、贈り主は大体わかる。おんなじ大きさの袋を先刻、家に置いてきたんだから。贈り物を、選別を、愛を置いて、ここに来た。この言葉を、贈るために。
「飛べるよ、君となら」
 きっと、果てまで、果てるまで、どこまでも。


Ep.02 鬼児島中也と旱魃の場合

 渇きは満ちる。
 私を残して渇いてやろうと嘯くその手を掴んでは、並び立とうと背伸びをしてそう、ついには宙に浮いてしまって、そうして彗星まで飛んでいってしまいたいんだ。貴女と私、ふたりを奪われないように。

「いい竜がいるんだ」
 きっとキコちゃんは乗りこなせる、と名の売れたリュウグウケアラーの語り口に耳を貸したのはいつの事だっただろうか。若い時分、とはいえそろそろ成年あたりの忘れもできない夏のこと。木児島中也は何人目かのパートナーを、竜を手放したばかりであった。手放されたって言われたってああ、手放したって言ってやるんだと心意気だけは強かな、己の頬を軽く叩く。前髪は眉上で切りそろえ、後ろ髪は邪魔とハサミで切り落とし、嗚呼でも目立ちたくはないなと首元で括って、そうして空を睨んでいた。いつだって青い眼前の壁に、雨も風も陽の光をも手放しで地に放る虚空に、噛み付く術など自分にはないとわかっているから。
 自分という人間は特別では無い。その事実を知らないほど、木児島中也は馬鹿ではなかった。ファクームに触れたのは親の勧めで、好意からではなかったし、憧れなんぞ後から湧いた。いや、この成年の時分まで、憧れなんて抱いていなかったのかもしれない。
 物覚えも地頭も、風を読むだけの目も耳も、劣ることはあれ秀でたことなどないと自覚して過ごしてきた。それでも、どうしても、空に手を伸ばしてしまう。崇高な理由はない。ただ、広い空に抱かれることを続けていたかった。そんな己が、学ぶことをやめてしまえば、鍛えることをやめてしまえば、ファクームのいろはを学ぼうと、専科のある学校へ進学した。座学だけは一丁前、実技はどうして着いてこない、身も震えぬ学生の時分だった。
ファクームを義務とは言わない。楽しさもある。けれども才だけはどこにもない。そうしてパートナーとなる竜たちは、心身の相反する伴侶に呆れ、常に己から別れを告げた。名は体を表し、体は心を表す。チグハグな伴侶に、己を預けられはしないのだと。鬼児島中也は元来虚しさの権化であった。
 ヒュッとひとつ、強い風に目を閉じる。じめついた夏の湿気を一閃、渇いた風が切り裂いた。そらお出ましだと、リュウグウケアラーは、神睦月帝はカラカラ笑う。うっすらと目を開くと眼前に、眩く輝く黄金の竜がふわりと浮いていた。短く切りそろえられた金髪に、ゆるりと揺蕩う衣装を身に纏う、太陽のような竜は、今まで見た誰よりも美しく、どうしてか喉が渇いた。こちらの気を知りもしないで、神睦月帝は手を振ってはそう、鈴の音のなる鉄球を、如来宝珠を揺らしては、ここまでおいでと竜を招く。
「おぅい、こっちだよ」
「私まだ何も」
「いいじゃない、お似合いだと思うんだけどナァ」
 大きくなったらファクームに、夢の舞台に立ってやるんだと言葉を紡ぐ子どもも、時が来れば口を揃えていつまで言うのかと笑う。鬼児島中也は、こと自分は子どもの時分妙に大人びていたという自覚があった。だからこそ、何故ファクームなのか、何故大人になってまで続けるのかという問いに、いつかは答えられていると信じていた。ただ、言葉が見つからないだけで。ただ、言葉にできないだけで。
 目の前が歪む。恥じらいか、プライドか、はたまた興奮しているのだろうか。何で歪んだかなんて知らない、心の弾む音が後ろで鳴り続けるのも知らぬふりをして、鬼児島中也は宙を見上げる。竜は、彼女は、その黄金は、よもや太陽に重なって、大きな影を自分へと投げかける。陽の光に照らされ続け、現在地も、目的地も、輝きすらも見えなかった中に、ようやっと影が差し込んだ。欲しい、この影の先にある、太陽すらも隠してしまう光の権化が。
「やァ嬢ちゃん、アンタ名前は?」
 光はふいに口を開く。傍から見れば神のようだが、どこか幼い声音にどうして、手も届かないはずなのに、親しみを感じてしまう。喉が渇く。大人びていたのではなく、大人でありたいと思っていただけだと、気付かないように言葉を紡ぐ。
「鬼児島、中也」
「中也ネ。覚えた!」
 屈託なく笑うその竜は、己を旱魃と名乗った。

 結論から言えば、旱魃は、帝が告げた以上に【いい竜】だと言わざるを得なかった。己が指示の拙さは変わらないが、何がしたいのかを汲み取ってくれる。ファクームで重宝される、自分で風が読める竜。そんな旱魃も、伴侶を失ったのだという。風も顔色も読めないと、何故何どうしてという話は鬼児島も、そして旱魃もしなかった。出会って数刻の相手に、いや、出会って数年経とうと、土足で踏み込むことはやめたいと思ったから。
「中也はさァ、意地とかあんの」
空中をくゆる髪をかきあげて竜は言う。
「どうかしら」
 いつか知ることになるかもね。その言葉に旱魃はカラカラと、少し水気の含んだ声で笑った。この竜と一緒にいれば、この乾きは、いつか満ちるはずだ。直感的にそう思えた。


Ep.03 川嶋安吾と夜鷹の場合

「僕は終わりが好きなんだ。」
 終わりの先を見据えていれば、いつ終わったって始まるんだから。そう言って彼は寂しげに笑う。本当に?と問いかける私はどんな顔をしているか、想像もしたくないけれど、彼はいつだって口にする。だって、終わったが最後始まらないなんてこと、ないんだからと。そうして始まりの見えない終わりがやってくる少し前の話。

 予選会場で万年二番手と呼ばれ始めて数年。万年なんて経ってもいないといつも思っていたけれど、ファクームの選手としての川嶋と夜鷹は、大きな特徴のない、よく言えばバランスの取れたペアであった。著名なリュウグウケアラーに師事する青年のメンテナンスや知恵、幼馴染故の息の合わせ方、それらを受けて星のように飛ぶ美しき紅の竜。赤い帽子に赤い鱗にと彼らを繋ぐ絆こそ強かれ、悪くいうなればそこまでだった。そんな組み合わせは五万もいると、そんな彼らが記念大会の、第一二〇回ファクーム本戦の出場権を手に入れられたのは、幸運も少し手伝ったのかもしれない。努力が知らぬ間に花開くとして、そこが予選大会の決勝で、相手選手のコンディションが悪かったというだけなのだ。
「やっとだね」
 決勝終わりの帰り道、川嶋は終わりの先の始まりに胸を躍らせた。夜鷹は終わり自体が苦手だけれど、今日ばかりはと頷き共に笑顔を浮かべて、そっと手を握って歩いた。夜が始まる。流星にも似た夜鷹の星だと、川嶋はよく竜を褒めたたえた。だからこの竜は、夜が好きだった。
「こんばんは、夜の星」
 トンと、声が背を突く。はてと後ろを振り返ると、影が三つ、こちらへ伸びてはゆらりゆらりと近づいてくる。
「誰、何の用」
 川嶋が状況を把握しようと動く間に、夜鷹はずいと一歩前へ出る。彼女の力強さに、いつだって惚れ惚れしてしまうのだと、川嶋は同僚によく口にしていた。夜鷹っぽい。自分もできることをと、川嶋も人影へ目を向ける。陰って顔の見えない黒ずくめの男、すらりとした黒いワンピースの女、それから…竜?
「ファクーム本戦おめでとうございます。さて、そんなお二人へエキシビジョンは如何かな、とお誘いに参った次第でしてね」
 男は何が愉しいのか、笑いを含めながら語る。エキシビジョン。客前で飛ばず、ただし公式記録として勝敗が着く試合形式のことだ。本戦前に相当数をふるいにかけるファクームでは滅多に開催されることがない、否、やる必要のない催しだ。それを提案してくるということは、何か裏があるはず。ぱちりと目が合う。川嶋も夜鷹も、その点においては同感だったようだ。辞めておいた方がいい。
「受けずともよろしいですよ、その程度の力で本戦に挑めるならば。美しき空を描けるならば」
 まずい、と川嶋は思った。夜鷹は、己がパートナーは冷静な顔をして喧嘩っ早い。挑発なんて受けてしまえば、プライドをなぞられてしまえば、答えなど決まってしまうのだ。きっと眼前の男は、それを知っていて、にやりにやりと見えない顔に月を浮かべて、夜を笑っているのだろう。夜鷹、と声をかけると、彼女は妙に平静であった。本戦に進むこのチャンスを逃してはならない、ただ、売られた喧嘩を買ってよいものか、静寂の裏で悩んでいるのだろう。手を握る力を強める。
「終わらせよう。悩むなんて、ぽくないよ」
 川嶋の言葉が、夜鷹の瞳に火を灯す。そうして二人して、エキシビジョンと名ばかりの、敗北しか待ち受けない、終わりの扉を開いてしまった。

 少し歩いた先にある、開けた草原が出発地点。山の頂に並び立ち、素早く地上まで降りてきた竜を勝者とする。旗を立てられないが故の、旧式のルールで行うのだと男は語る。如来宝珠を手渡すや否や、男の声が開始の合図と、二体の竜が空をグングンと駆けていく。漆黒の馬、九面桜花と水天は、紅い彗星を一瞥もせず、自由に空を飛ぶ。夜鷹の地力が低いのではなく、異様に速い水天のスピード。夜鷹は川嶋の合図を待つが、水天は風をひらりひらりと読んで進んでいる。その証拠に、川嶋の横に立つ九面は、道しるべとなる球を揺らさず、蕩けた目線で空を見上げるだけだ。ごく偶に素早く合図を出すことが、この伴侶の役割なのか、よもや美しい空を見上げるためだけに音を鳴らすのか。
 必要最低限の的確な指示。地力があり、風の読める竜。言ってしまえば、格が違うのだ。勝敗など、もう決まっているという構図であった。その構図が崩れるような幸運は、もう昼の間に使ってしまっていたのだ。運頼みなんてぽくないよと、川嶋が顔を上げ如来宝珠を振り上げた瞬間、ズン、と地面を揺らして水天が、漆黒の馬が地に足を着けていた。いまだ夜鷹は空の上。あっけない終わりがやって来た。
「私は終わりが嫌いなの」
 夜鷹の声がする。終わりの先には何もない、始まる保証なんてどこにもない、そんな終わりを受け入れるなんて嫌なものだと、そういって夜鷹は顔を歪める。そんなことないよ、と声をかける自分がどんな顔をしているか、川嶋はわかっている。


Ep.04 九面桜花と水天の場合

 己が人生は天と同じ。
 他の誰にも奪われず、引かれることなく己の道を進む。月も太陽も、己が手のひらを撫でるだけ。菩薩の掌をヒールで貫き、赤い足跡で軌跡を描く。一本線にも届かない、端くれなんぞは風に散りゆく。
「それは、夢のようだね」
 そうして己の横には誰も残らないのが常だった。

 九面桜花の隣に立つと、消えてしまうらしい。そんな陳腐な噂話で騒がれたのは子どもの時分だったか。正確にいえば空を見上げて、ふらりふらりと歩みを進める彼女が何処かへ行ってしまうから、それを消えたと騒いだだけだが。
昔から空が好きだった。空が、雲が、広がって先の知れない青色を眺めて吸い込まれてしまったような心地で居るのが好きだった。ファクームを好いたのも、その延長線上の話。空にひらりと一直線、真白な線を描く竜の姿を内包する、人と竜の力をもってして描くことのできる奇跡。そんな特別な空が、いっとう好きだった。
 のちのパートナーに出会ったのも、空を眺めて彷徨っていた時分であった。空を眺めると上ばかり見てしまう。小高い丘に伸ばした足へ、ズン、ズン、と不定期に響く鈍い揺れに、ふと目線を下げてしまう。丘の頂上で乱れた息を吐く、幼い竜の姿が、己が瞳を埋め尽くしていた。自分と同じ、十歳ほどの小さな体躯。身体に生えた青い鱗の煌めきが、空のように見えたのだ。鱗が太陽に反射してキラキラと光を放つ。よろ、と立ち上がる竜の腕や足には、鱗に隠れて大小さまざまな切り傷や青黒い痣をそなえている。青い光を阻めない、汗と血を流しながら、長髪を掻きあげて空を睨む。綺麗だと思った。つい口に出してしまうほど。その言葉に呼応するように、ピクリと肩を震わせる。向けられた目線からは、驚くほど何も感じない。
「誰」
 乱れた息を整えて、彼女は問う。汗を拭うこともなく、水に濡れたような立ち姿は、海のようで、空と溶けてしまいそうで。それはまるで、
「水天、一碧」
 空と海が、空と碧とが溶け合うような、絵画的な姿だった。小さな竜は、ぱちり、と目を大きく開いて瞬かせる。空と海とを閉じ込めたような、弾けるような瞳はそうして、はじめて揺らぎを生んだ。
「水天。…私の名前」
 名前は嫌いだ。何かだれかを括ってしまうから、カテゴライズしてしまうから。けれども彼女の名前は、現象は、括るのではなく拡げるものだと信じて疑わなかった。名は体を表すのだと、伝えられた彼女の目は細まった。

 空を求める九面の足は、自然とあの丘に向かう。水天だけの練習場所は、九面桜花だけの秘密の空になった。馴れあうこともなく、言葉もほとんど交わさない。ただ飛ぶ竜の姿を、ただ眺める。他のどこでも得られない、傲慢な、自分だけの空。鍛えることを辞めない、高尚な身体。その姿の映る空を、目に焼き付けるのは心地の良いものだった。
 出会ってからいくらか経って、ファクームという競技の存在を理解した。テレビや学校、眺めた空たち。ふわりと知ってはいたけれど、競い合うことに興味がなかい、美しい空を追い求める九面にとっては、関係のないものだった。それは水天に出会っても変わらない、いや、水天の飛びざまさえ見れればそれでよい、それだけの話だったが。
忘れもしない、太陽の消えた曇天の日。その日も九面と水天は丘に居た。誰も飛ばない小高い丘で、ひらりひらりと研鑽する竜を眺めては、右へ左へと舞う風に身を任せていた。ファクームという競技で伴侶に求められる、風を読むという行為を、九面は教えられるでもなく自然と身に着けていたのだ。ただ、それを伝えるまでもなく水天は己が進路を自由に変えて飛び続けていただけ、伝える必要がなかっただけ、なのだが。風が止んだ瞬間。ビュウ、と一閃の光が空を薙ぐ。黄色、黄金、いや、太陽のような黄色い光が二人の眼前を横切ったのだ。
「悪い!急いでてネ」
 着飾った竜はきらびやかな装飾をジャラジャラと鳴らしながらも、気さくな顔つきでヘラリと笑う。幼げな、けれど水天よりも長い爪に大きな翼、大きな体躯は成年の竜だと感じてしまう。どこ行くの。水天の問いに、光は瞳を細めて笑う。
「決まってんだろ、ファクームさ!」
 予選だけどネ、と笑う竜の後ろから、雲が割れて太陽が覗く。神秘的だと思う反面、水天の描く空と他の空が混ざり合ったなら、新たな世界が見れるのではないか。じゃあねと舞う黄色い羽織が小さくなってゆくのを眺めながら、九面は胸の高鳴りを押さえられずにいた。太陽が見えなくなってから、横に目線を向ける。水天の表情は見えない。ただ、初めて見る赤く染まった耳と、強く握られた拳が全てを語っていたように思える。
「ねえ」
 かけた言葉の続きを、竜はもう知っていた。

Ep.05 祈竜院レイと春霞の場合

 朝に焼かれる。終わりも始まりもなく、さあささ踊れと囁かれては、引く手を払って立ち止まる。
「僕ら、きっと番なんだ」
 いつからか、朝も夜も一本の線になって、私は今日を迎える。

 今日と明日が曖昧になったのは、大人に、いや、大きくなってからのこと。今日のうちに、絶望もなく、眠ってあぁ明日の朝ごはんはなんだろうなんて、先のことを考えていた頃は、今日の終わりが寂しかったし、明日の始まりを嬉しく思ったけれど、今となっては血で真っ直ぐ引いた水平線を歩いている。
 甲板に出て、伸びをする。目を閉じ大きく息を吸う。朝一番より少し前、誰も彼も、否、ネズミを探す猫を除けば、ひとっこ一人居ない場所は、気が楽だ。進む戦艦の切った風で、編んだ髪束がふっと解れる。風呂に入ればギシギシと軋む髪でも、争いの場では生を、変化を、感じる大事な要素になった。戦争がはじまって四ヶ月。神無月から生き延びそうして気付けば桜前線に追われている。空軍第三航空隊は、私たちは、まだマシなのだと言った上官の苦い顔に、考えをめぐらせるより前に、コツコツと音が耳を叩く。ひとりの時間は終わりらしい。
「おはよう」
 祈竜院レイはきっと知っていて、それでいて少し遅れてやってくる。隣に並びにやって来るけれど、前に出ることは無い。あの日、あのファクームを超えたあと、地上でも、空でも、レイの定位置は少し変わった。今日は上空偵察だから、少しは好きに飛んでいられると、気楽な振りをしてレイは笑う。笑う。笑うのは、少しずるいのだと言ってもきっと目を丸くするだけだ。上を見上げれば日は顔を出して、そこに雲が首をもたげた。曇り空の日は偵察にいい。気が楽なのは、誰も殺さなくていいからだろうと、光に責められることがない。朝も夜も線で区切った、海原の中で私たちは、狭間に堕ちるその日まで、血を浴び踊り明かすのだ。
「あれェ、二番乗り」
 早起きしたのに、と間の抜けた音が水面を揺らす。幼なじみはどうしてこうも、気分を落ち込ませる気がないのか。いや、彼の片割れがいつもいつだって直ぐに気を落としてしまうからか。…いやいや、そこまで考えているものか。
「や、勅。早いね」
「腹減って起きた」
 彼ら二人が打ち解けるのに、そう時間はかからなかった。軍式の飛び方を覚えようと、幼なじみは足繁く私たちや上官を訪ね、語らう時間が増えていったし、確実に技をモノにした。空軍第三航空隊は、学ぶ者を蹴落とさない。上官に生意気なレイがここに居るのは、きっとそういう事なのだ。そうでなければあの上官は、彼を彼女をつまみ出すだろう。と、思う。いや、絶対にそうだ。
「ほら、さっさと行った行った」
「偵察終わったら、ご飯食べよ!」
 見送りが暖かいと良い。帰ってきたいと思えるから。勅と幽天、冬の名を背負う彼らを尻目に、ふわりと空へ飛び立った。こうして私たちは今日も、失いたくないものを増やしてしまう。
 ほんの一呼吸するうちに、船はどんどんと縮んでいく。偵察は、まず空高くへ舞い上がってから。上官が口をすっぱく、けれど何処か柔らかく告げていたのは、きっとあの國技を彷彿とさせるから。今は自分でもそう思う。高い位置から敵味方問わず、広く見渡し、記録しそうして帰投する。風を避けながら上へ上へ。手を引きながら、手を引かれながら、傍らの麗人と段無き階段を駆け上がる。
「レイ」
 ふと顔を見て、はたと気づいて、つい声に出た。笑うレイの瞳に映った、己の唇も、緩やかに弧を描いている。私も、ずるいヤツらしい。こんな時に笑うだなんて、楽しむだなんて、どうかしてると笑みがついには零れてしまう。久々に、自分で笑ったと自覚した。ふと前を見れば、目を丸めたレイの口から、ポロポロと言葉が零れる。
「僕さ、見つけたんだ。お姫様にも王子様にもなれる言葉を。僕たち二人だけの魔法の言葉を」
 春の名を背負うなんて言うけれど、自分には別に名前や季節に愛着もない。そうして人への執着もない。けれどもどうして、その先だけは、聞きたくてしようがなかった。己を縛るようでいてどうして、解き放たんとする言の葉を。
「僕ら、きっと」
 雲を切り裂けば、きらりと光が私たちの胸を突き抜ける。その先の言葉は、破裂する音に叩かれて消えた。
 ふわりと浮遊する心地がする。浮いているのか、堕ちているのか、嗚呼でも花嵐に吹かれて、目の前を桜吹雪が覆うのだからそう、きっと両の足で立っているのだ。君の顔が見えないなあと、その声を頼りに手を伸ばして、生ぬるい頬を覆う。
 教えてよ、その言葉を。朝と夜の狭間にある、私たちだけの魔法の言葉を。

Ep.06 神睦月帝の場合

 夢で見る。
 あの日の約束を、来る日の涙を、夢で見る。宙を駆けることもできず、地べたから足を離せないまま。翼に触れることすら出来ない俺は、ただ、ただ、夢が見たい。

 空が白む頃、神睦月帝は郵便のバイクの音で決まって目が覚める。身体は資本だ。起き上がって、伸びをする。リュウグウも人もおなじ、骨と肉で出来ているなら、人間も手入れをして然るべきだろう。リュウグウケアラーを名乗る以上、自身の身体を出来ないなんて名折れどころの話では無いからだ。立ち上がり、身体を曲げる。少し硬い。日々の手入れらしくない強ばりは、寝起き特有のものか、緊張から来るものか。慣れるようで慣れないものだと、息をついて、寝室を後にする。今日は朝から一仕事、そのあと続いて大仕事だ。

「らしくないな」
 手紙でも届いたか、と馴染みの竜‎は銀糸を揺らす。一〇年間畳んでいたとは思えない程にがしりとした翼を携えて、二宮典人は真面目そうな顔を見せる。真面目そう、いや、これは面白がっている。無愛想だろうと、半生を共にした竜の機微に気付かないほど鈍感ではない。倍以上共に居たはずの、家族の心こそ見えなかったが、この気難しい竜の瞳の奥に好色が透けているのを見逃さない。俺が出せていないんです、返事。そう笑って翼を拭く。戦地に向かう弟へ、出せよと伝えた手紙は思いのほか律儀に届く。青年になった弟との交わす言の葉は、目に見えて減った自覚が無いわけではない。書面にすれば何とかなるかと、言われりゃそうとも限らない。元来コミュニケーションは得意な方だと思っていたが、少しばかり自惚れていたらしい。
「毎度毎度、そう返す言葉に苦心するものかね」
「典人さんだって」
「いや、俺は」
 言葉を濁す竜の瞳が、濁らぬことに安堵する。一〇年前に失った、そう思ったあの日々はまだ続いていると確認できるから。遠ざかった肉親との距離や時間は僅かに動き出し、胸のしこりであった恩師達の溝も埋まり始めている。変わらぬことなど、止まることなど、ないのだと頬を緩める。
 だけれど、世の中は変わった。戦争がはじまり、自由に空を飛べなくなった竜たちは、戦場へと赴いて行った。リュウグウケアラーとして、竜たちが強く猛く飛ぶさまを後押しする己の職の行く末などとうに決まっているものを、眼前の老兵は、恩師は、いや、正確には恩師たちは、その手を地に染めながら、とうに成人した自分を幼子のように、何食わぬ顔で守ろうとする。
「大人になんてならないでよ」
 帝はさ、と月夜の竜が笑った日を思い出す。数か月前、ファクーム前夜のメンテナンスで、己に身を預ける老兵は、よく笑う竜だ。普段は顔を笑みで転がすくせに、その日は人一倍大きな翼を広げて、表情が掴めないでいた。実翻アタウに告げられた、その言葉の意味を知りたくなかった。きっと、己が弟にしてきたことと、かけてきた言葉と、同じなのだろうとわかっているから。この得も言われぬむずがゆさは、行き場のない腹立たしさは、どうしようもないものだと、今になって反省する。止まっていた手を降ろし、「今日は違うんですよ」と伝える自分を真似るように、竜は緩んでいた頬を締める。アタウも呼ぶか、という声に応と首を振るや否や、メンテナンスルームの扉が勢いよく開く。
「もー待ちくたびれたよォ!」
「ノックくらいしろ!」
 バカ、どこから聞いていた、と目くじらを立てる二宮の肩を叩きながら、実翻は伴侶の隣へ立った。ケジメはつけなきゃデショ、と吐く口元はへらへら笑って、そのくせ目は笑っていない。自分たちのことになるとてんでダメなのに、こういう時は察しが良いのは、愛されているからなのか、ほんの少しだけ自惚れてみる。だからこそ、決めたんだ。決意を新たに短く息をつき、恩師たちの目を見る。
「二宮典人中将殿へお願い申し上げます」
 彼らのためじゃない、自分のために。
「私、神睦月帝を、軍属のリュウグウケアラーとして招集いただきたい」
 丸まる瞳と細まる瞳に囲まれながら、頭を下げる。自分らしくない、自分で選んだ、自分なりの大人としての、選択だった。


Ep.07 二宮典人の場合

 夢を見る。
 己が目下に映る景色を、海を。影すら映らぬ鏡面を、頭上に広がる満天の星を。もう見ることの出来ない空を、忘れていたい星を。
「典人」
 カラコロと響く斯の音色を、忘れたくないと夢に見る。あの日、一〇年前のあの日、俺たちは誰よりも自由で、誰よりも不自由だった。

 普段より早い時間に起きる、そんな日は決まって夢を見る。ぬるく気だるい、繭のような、夢を見る。身体を起こして、伸びはしない。溶けて羽化した自分の身体は、何も変わっていないから。年々縮まり、固まり続ける、伸びるかどうかも知りたくない両の翼に、いやでも気付いてしまうから。べとつく身体も、邪念も全て、シャワーで洗い流してしまおう。そう思い立って立ちあがる。水が心地いいようでいて、冷たいはずが生温い。この翼を伸ばせるものか。あの日から、試すことすら辞めてしまったのに、メンテナンスを辞められないのは、見知ったリュウグウケアラーに、野次を入れられないためだ。そう言い聞かせて背を流し、水に溶けた未練を排水口へ押し込んだ。
 こんな日は決まって早く部屋を出る。足早に道を歩く。歩く。開戦から一ヶ月。新兵老兵一緒くたにして、指揮に指導に目が回るのだ。時間があるなら手を足を、頭を動かし続けたい。そうでもしないと繭に戻ってしまいたくなるだろうと、わかってしまうものだから。朝顔もまだ開かぬ朝、演舞場の空を見上げれば大輪の花が咲いていることがある。いや、むしろ毎度咲いている。
「いつ気づいたのさァ」
 鈴の音をカラリと響かせて、見慣れた竜が降りてくる。朝焼けに染まらぬ蒼を纏った、竜はひらりひらりと己の、目の前まで降りてくる。滑稽だ。嗚呼滑稽だ。崖の上に咲く焦がれた花が、春風と踊る真白な蝶が、好き好んで土に塗れるか。そんなことを聞いたなら、実翻アタウは口をへの字に曲げてしまうと知っている。

 この老兵、否、純血のリュウグウは齢一〇〇を超えても青年か、この新兵はいささかどうして、飛ぶのは好むが群れを嫌がる。そもファクームあがりのリュウグウ、伴侶(軍ではパイロットと呼ぶ)は頭ひとつ抜けるがどうして、実戦式の飛び方に、集団での飛び方に、慣れるにはどうも時間がかかる。さすれど慣れねば共に飛べない。単騎決戦ばかりでないのは、どの戦でも同じこと。だがこの竜だけはまだ染まらない。
「やだ、美しくない」
「自分で読めるよ風くらい。で、どうするの?」
 どの教官もパイロットすら、悲鳴をあげて最後には俺を尋ねる始末。教官の指導は受け入れず、パイロットの指示は聞かないどころか先を読みすぎ、やることプライド全てをへし折る。されどもファクーム、往年の猛者、メンテナンスに訓練を積めばめきめきと頭角を現しそうして誰をも置き去りにする。その美しき飛び様に、どうして胸が踊ろうか。もう伸ばせない翼の根元が、むずりと蠢く心地がする。
「イイこと思いついちゃってサ!」
 朝日が照って、顔が見えぬまま、ヤツはこちらへ歩み寄る。朝の闇の先、何処かで見たような気がする。この顔を、俺は、何処かで。見た?否、した?記憶を掻き分けるより先に、眉間に指を添えるより先に、竜は顔を割り込ませる。腰の後ろへかかる重心を、まるで元からあったかのように、伸ばす後ろ手で支えては、逃がすまいと捕まえる。そうだった、実翻アタウは、俺が何も言わずともどこへ行こうとも、それが当たり前だと言わんばかりにスイと横にやって来る。
「飛ぼう、一緒に」
 とっておきの宝箱には、脱ぎ捨てた繭が入っていた。自分が宝物にでもなったようだ。キラキラと光る宝石のように、一〇年前に置いてきたはずの思い出を、後悔を、未練を、夢を、ズイと差し出すこの竜は、ひらりと空中一メートル、ここまでおいでと呼んでいる。
「置いてけないだろ?」
 どこまでも自分勝手で、俺を勝手にしてくれる。それがたまらなく恐ろしいから、俺は、そう口に出すより前に、背中に慣れない、いやご無沙汰な、筋肉の震えを感じる。返事より、手より足より先に翼が、久方ぶりに顔を出す。何を思うまでもなく、硬い両翼はその羽を広げ、痛みは産声と言わんばかりに、いざ飛び立たんと声を上げた。そうだ、あの日もこうだった。
「え、いいの!」
 あの日、二人で飛ぼうと、伝えたのは結局自分からだった。判断能力の高い竜に、遠隔で指示を伝えるのは効率が悪い。指示役が隣にいることが彼にとって最善だろうと。あの時も、実翻アタウは宝物を見つけた子どものように、目を煌めかせて手を差し伸べた。あの日も、そうして今も。
「お手をどうぞ」
 ふわりと空中一メートル、彼の隣に並び立つ。久方ぶりの身体は重く、それでもいいと伸ばされた手を拒む理由がないのはきっと、これから見る夢が、覚めてしまうかもしれないから。覚めないで欲しいと願うから。
「離すなよ」
 どうかなあ、と笑う竜の爪が、すこし食いこんでいたかった。

Ep.08 実翻アタウの場合

 夢に見る。
 己が目下に映る景色を、海を。影すら映らぬ鏡面を、頭上に広がる満天の星を。手を伸ばせばすぐ届く空に、されどもう二度と届かぬ星に。
「アタウ」
 じわりと滲む水音に、忘れたくないと夢に見る。あの日、一〇年前のあの日、俺たちは誰よりも自由で、誰よりも不自由だった。

 鈍い痛みで目を覚ます。薬と潮の匂い。揺りかごというには多少激しい揺れ。戦場の寝台はかくも寝心地が悪いものか。麻酔で狂った身の髄をノックする、振動の主は全身に、あちらこちらと群がっていた。うっすらと目を開けてみれば嗚呼、どこもかしこも布に巻かれて、繭にでもなった心地がする。鱗は剥がれ、爪も割れ、はては腕も上がらない。そうして頭も回らない。どこで何をしたんだったか、…そう目を落として映った軍服に、実翻は納得する。
「おはよ」
「寝過ぎだ、阿呆」
 声になったかなってないかの、挨拶なんぞ知っちゃいないか。窪んだ瞳でよれたシャツを正しながら、眼前の男は水面を揺らす。本人は知らないだろうが、二宮典人は顔によく出る。寝不足な目元、少し伸びた髭、銀の御髪もクセがついている。目線の動きで気付いたのか、髪を整え立ち上がろうとする彼を呼び止める意地の悪さが、あるくらいには元気だった。
「俺、どうなってる?」
 ピタ、と動きが止まる。硬直した顔、揺れる瞳、立ち上がらないなら使い道のない手は微かにああ、震えている。うん、不味いんだろうなあ。
開戦からもう何ヶ月か。のんべんだらりと羽鳴らしをと、演舞場で飛んでばかりでは居られないのが世の常か、強き者は、そうでなくとも人より強固な竜たちは、戦場へとほら駆けていく。それは己とて例外ではない。それでも、と後ろ手で袖を引いた彼に、応えようと努めたんだが、だが、どうにも難しいものだ。その後ろ手へと魔弾が飛べば、ひらと代わりに手を差し出して、大きければ身も差し出して、しまうことさえも止めるのは。
「なんで庇った」
 二宮とファクームで舞った日々は、半世紀を超えそれだけ長く、されど今やもう泡沫の宴だ。宴を終えてからの一〇年、その泡を潰さぬように、逃さぬようにと水槽に入れて眺めていたのに今やそう、溶けたはずの人魚がああほれ、目の前にいるときたものだ。実翻アタウは元来貪欲、何をも手に入れたい竜だった。人魚が戻ってきたならどうだ、また泡沫の宴を、二人で一人の飛びざまを、ここで、また夢に見たいと願うから。
 二人で一人、その夢は軍で他人に見せる悪夢となった。戦績は留まることを知らずに、敵も味方もお構い無しに、誘われていない舞踏会へと巻き込んでゆくときたものだ。二ヶ月前の実戦投入から、二人は大規模戦闘にばかり投入されるようになった。正確には、実翻を温存し、二宮は指揮に回っていただけの話なのだが、存外効率も良かったようで、このスタイルが恒例となった。ただ、その日は少し違った。負傷を負った新兵の元へ、飛ぶ散弾を、怒号をくぐりぬけ駆けつける。二宮典人は、元来情に厚い竜だった。止まらぬが故、視野が狭まり、その怒号を発したのがよもや、危険を察した実翻だとは気付くのが少し遅かったのだ。
「君が遠くにいるから?」
 なんて言ったら、ああいけない、口に出てしまっていたものだから、ハタと目の前を向けばそらみたか、草むらの先、波だった瞳がこちらを睨む。怖い怖い。あははと笑ってやろうとすれば、背中がズクンズクンと痛む。背中。背中。やっぱりそうかな。口にするのは少し怖いが、見えないからって知らなくていい訳では無いと知っている。無理にでも身体を起こそうとすると、横から真白な手が伸びる。欠けた爪を手入れしないなんて、この竜らしからぬ姿だこと。伸びた手に捕まる形で、上体を起こす。重いのに、軽い。軽いのに、重い。背中に何かが足りないのだ。生涯を共にしてきたはずの、何かが。
「ね、教えてよ」
 せめて君から聞きたいんだと。願うように、歌うように、告げてほしい。この宴の終わりが、己が泡と消える時がやって来たんだと。君のことは諦めない、でも自分のことは、
「作るぞ、義翼。…俺のも」
 思いもしない言の葉に、ぱちくりと目を瞬かす。義翼。戦で翼をなくした竜にと、生み出された偽りの羽。え、君も?
「…おそろいだね」
「そうだな」
 阿呆な言葉しか出てこない。なんだよ、そこは否定しなよ。普段なら言葉半ばで引っぱたいてくるだろうに、大真面目な顔で同意なんかして。マジマジ見つめる己の姿がそんなに可笑しいんだろうか、ようやっと顔が波打った。一滴、朱を垂らしたような、冷たくぬるい水面。
「…俺を諦めてくれなかったろう」
 そうだった、思い出した。実翻アタウは、二宮典人は、元来往生際が悪い竜だった。目を伏せた眼前の竜と、額を突き合わせるった。
「もちろん」
 宴はまだ、終わらない。

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