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サイコロジー・オブ・マネーの著者のインタビュー動画

 ・・・がツイッターで流れてきていた。

 『サイコロジー・オブ・マネー』は未読だが、動画の内容は大変良いものだった。動画には日本語字幕が付いているので、もとの英語のスクリプトを記しておく。最初は自分で聞き取ってみて、その後Chromeの機能の文字起こしでチェックする。いい時代になったものだ。私なりの訳も下につけておく。

 A high-end Toyota is a nicer car than an entry level BMW. A high-end Toyota is filled with things that are good for you.  Comfy sheets, good sound system, moon roof, whatever it is. The entry level BMW is purely bragging rights. You're paying for the emblem. That's all you're paying for to show other people like "look at me, look how great I am." If you can just dispose of that in your life, with the need to impress strangers, outside of your core family, friends, co-workers, whoever it might be, who like want you to be a good person. If you can dispose of that, I think that is a financial asset on your balance sheet that can literally be worth millions of dollars to you, just lacking the need to impress strangers.

 
ハイエンドのトヨタ車は、エントリーモデルのBMWよりも良い。ハイエンドのトヨタ車には立派な装備が付いてる。快適なシート、良いオーディオ、サンルーフ、とかね。エントリーモデルのBMWは、ただの自慢する権利だ。エンブレムにカネを払っている。他人に「見てくれ、俺はスゴいだろ」と見せつけるために。もし人生で、あなたにいい人でいてほしいと思う家族や親友や同僚以外の他人を感心させるニーズとともにそれと決別するだけで、それはバランスシートに載っている、文字通り何百万ドルもの価値がある金融資産だ。他人を感心させたいと思わなくなるだけでだ。

 この主張は、フランスの哲学者・ジャン=ボードリヤールの言葉で言えば「消費をやめて浪費しろ」ということになる。ジャン=ボードリヤールは1970年の『消費社会の神話と構造(La Société de consommation)』で、消費を「他人の欲望を欲望すること」とした。一方「浪費」とは自分の欲望に従って行動することだが、こちらには物理的な限界がある。旨いものをどれだけ食べるとしても無限に食べられるわけではない。何台も車を持っていたとしても実際に運転できるのは1度に1台のみである。他方、他人に良く思われたい、優れているとみられたいという欲求には限界がない。だから、今日はこの車でよかったが、明日はまた別の車、その次はまた・・・ということになり、支出の無間地獄に陥ってゆく。

 こうした消費社会の構造に気づき、自分にとって本当に必要で大切なものを見極めることができれば、別に大金持ちにならなくても幸福に生きていくことができる。世に溢れる金銭系の自己啓発本に書かれていることの本質はここに行き着くだろう。

 ショーペンハウアーも『幸福について(Aphorismen zur Lebensweisheit)』の中で、他人の評判を気にして生きることの馬鹿馬鹿しさを説いている。優れた精神の持ち主であれば、自分自身が知的な喜びの源であるため、他人とは疎隔してゆく。ショーペンハウアーによれば、社交とは自分自身の内面の空虚さに耐えられない者たちの慰み合いなのだ。

 ところが普通の人間は、事、人生の享楽となると、自己の外部にある事物を頼みにしている。財産や位階を頼みにし、妻子・友人・社交界などを頼みにしている。こうしたものの上に彼にとっての人生の幸福がささえられている。したがってこうしたものを失うとか、あるいはこうしたものに幻滅を感じさせられるとかいうことがあれば、人生の幸福は崩れ去ってしまう。このような人間の重心は彼の外部に落ちる、というような言い方で、この関係を表すことができよう。だからこそその人の願うところは動揺常なく、気まぐれである。資力の許すかぎり、別荘を買ったり馬を買ったり、宴を張ったり旅に出たりして、とにかくすごい贅沢をしようとするのは、何事によらず外部からの満足を求めるからだ。健康と体力との真の源泉が自分自身の活力にあるにもかかわらず、衰弱した人間が野菜汁や薬剤などで健康と体力をつけようとするのと同じである。
(…)
 全体として見れば、誰でも精神的に貧弱で何事によらず下等な人間であればあるほど、それだけ社交的だということが知られるであろう。
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 誰でも自分自身にとっていちばんよいもの、いちばん大事なものは自分自身であり、いちばんよいこと、いちばん大事なことをしてくれるのも自分自身である。このいちばんよくて大事なものが多ければ多いほど、したがって享楽の源泉が自分自身の内に得られれば得られるほど、それだけ幸福になる。だからアリストテレースが「幸福はみずから足れりとする人のものである」と言っているのは、全くそのとおりである。

『幸福について 人生論』

 しかし現代社会は、他人の欲望を欲望することだけを教育するコンテンツで溢れている。無料で配信されている番組、記事、動画、街に掲示されるもの、すべてが「他人の欲望を欲望せよ」という指令を出している(『ゼイリブ』のグラサンをかけたらそう書いてある。まさに"CONSUME!"消費しろ!だ。buyとかinvestでないところがポイントだ。ゼイリブは1988年の映画なので、おそらくボードリヤールの議論も踏まえられているはず)。学校や会社も、偏差値や年収、職歴といった指標の数値を高めるラットレースに体よく人々を追い立てているに過ぎない。

https://www.feistees.com/they-live-t-shirt-obey-consume/

 このような環境の中で、自分に生じる欲求のうちどれが本当に自分がやりたいことで、どれが他人や社会、大資本による洗脳・刷り込みに基づく虚構の欲望なのかということを判別することは、意外と難しい。古代ギリシアで、アポロン神殿の入り口に刻まれた格言 γνῶθι σεαυτόν(グノーティ・セアウトン_汝自身を知れ。ラテン語ではnosce te ipsum)ということが一番難しく、じっくりと腰を据えて取り組まなければならない課題なのである。

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