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政治はオワコン

 いままでの社会を作ってきたディープステート側の政治家や企業家は裏で極秘裏に逮捕されていて、処分が進んでいる・・・という話がよく出てくる。

 もちろんそういう工作員たちも、支配者にとって用が済めば処分されるのだろうし、生かしておくと不都合だから始末する、それは我々庶民が買ってはみたものの役に立たなかった調理器具を捨てるのと大差ない。

 私も小学生ぐらいのころは、「まじめな政治」と「娯楽としてのエンタメ」というふたつがあって、まじめな話はまじめ、娯楽は娯楽というふうに分けて考えていた。しかしどちらも同じ穴の狢で、政治だって庶民にとっての娯楽に過ぎない。パンとサーカスのサーカスであるに過ぎないのだ。これもまたヘーゲル流両建構造の一つだ。

 別にエンタメをエンタメとして楽しむ分にはいい。私だって映画も観るし音楽も聴くしコントだって観る。しかし政治の話の場合にタチが悪いのは、あたかも正義の実現のためにそれを議論しているかのような錯覚に陥ることだ。

 近代の虚妄の一つに民主主義がある。民主主義とは、民衆どもに「お前らが自分で選んだんだから、何が起こっても文句を言うな」という自己責任を押しつけるためのものに過ぎない。王政や君主政をやめて、民主政が正しいとされるようになった嚆矢はフランス革命で、あれはそのためのイベントに過ぎなかったのだろうと今は考えている。

 労働や生活に関して不服があると、すぐに政治のせいにする連中がいる。無論税金やら規制やら、政治家によって決定されることで生活に影響が出る部分もある。しかしそれはその政治家連中が決めているわけではなく、もっと上の方から命令されて決められているわけで、国民からの働きかけで実現しているものも、そういう体裁で宣伝されているだけの話だろう。それを信じ込むことによって、政治や国家権力に依存し、自らなんとかして工夫する能力を次第に失っていく。政治に関与している、という虚構の中で政談という娯楽に興じて、民衆が自分たちで生活する力を奪われている。しかしだからといって、政権を打倒しようとか自治的な政府を建てようとかいう話でもない。そもそも政治や社会構造を作るのは支配者層の専売特許で、民衆にはあずかり知らぬ話なのではないか、わざわざ配慮することもない領域なのではないかということだ。

 本当に配慮すべきは、我々が自分の生きる生活空間のことを等閑に付して娯楽に興じていることだ。衣食住に対する感性を失っていることだ。

 ときどき老舗の料理店に食べに行く。函館でいうと五島軒なんかだが、建物の造作からはじまり、置いてある家具や食器、展示されている昔のメニューや衣装なんかを見ると、いまではもう相当なカネを出さないと手に入らないようなものがずらっと並んでいるのに驚かされる。

 これはつまり日本がずっと貧しくなってきたということの反映であって、いまの生活空間にあるものはみんな大量生産、大量消費のために作られたパチ物ばかりだ。一人一人が安いものやコストの安いものを選んできた結果、良いけれども高いものを作る職人がいなくなり、結果として給料も安くなり、日本全体が貧乏になっている。そして政治が悪いだの経営者が悪いだの、バカみたいな寝言をほざくことを政治や経済の議論と勘違いしている。

 まあそう言うと、お前もToo Small To Failとかいってカネをかけないようにしろと言っているだとという反論があるかもしれない。だが私の言うあれはむしろ本当に質の良い物に資金を回すために、さほど必要ないところにはカネをかけなくてよい、という話だ。すべてを安く済ませろというのではない。逆に良い商品、良いサービス、良い人間はついている値段よりも実際には遥かに価値があるので、それに投資できる余力を常に残しながら経営しろ、という話だ。そしてそれがわかるような目を養い続けなければならない。

 だからバカな政治経済の議論に耽溺する前に、良い物を買って良い物を食わなければならない、ということだ。多少高くとも、国産だったり地場の資本の店だったりで、クオリティの高いものを買わなければならない。選挙なんかに行っても何も変わらないが、自分が何を買うのかということは選択することができる。

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