言葉で伝えられないものは確実にある

「話せばわかるなんてことはない」つくづくそう思う。

ひとつは先日の部会での話。ここでわからなかったのは自分のほうだ。
私は少し昔の著名な動物行動学者の本を引用しながら、こんな企画を考えている、と提案していた。それに対して部長が「その話は、最近明らかになっている知見を踏まえると、ちょっとおかしいのではないか」と指摘した。

私はその最近の知見を追えてなかったこともあり、その指摘の意味するところがよくわからなかった。さらに言えば、その動物行動学者の文章にとうてい落ち度があるように思えなかったので納得もいかなかった。正直にいうと、その指摘に反発する気持ちさえあった。

ところが、その最新の知見が書かれているという本を読んでみると、部長の言わんとしていたことがよくわかった。自分が何が見えていなかったのかがわかった。どうも自分が見えている範囲だけで考えてしまうというか、そもそも見えている範囲でしか考えられないのだけど、その場合に、ちがう世界を見ている人の意見を受け入れにくいというのは、私に限らずしばしばあるのではないか。

そうして自分が見えていない可能性は脇に置いて、相手を批判してしまう。相手はぜんぜんわかっていないと憤る。コミュニケーション不足といえばそれまでだが、もっている背景や体験が異なれば見えている世界は大いに異なる。そして、それを伝えるのは容易なことではないと思う。

養老孟司さんの『バカの壁』で「話せばわかるは大ウソ」と書かれていたが、まさにその通りで、体験ベースの知というのはそう簡単に伝えられるものではない。それを話せばわかるはず、自分がわからないのは相手の説明がマズイからだと,考えるのはひどく傲慢な態度ではないか。

もちろん、私は言葉による説明、コミュニケーションを否定するわけではない。しかし、それだけでは伝えられないこと、理解されないことがたくさんある、というのがわかっていない。そこがわかっていないから、「聞けばわかる」「話せばわかる」と思っているのです。

養老孟司『バカの壁』新潮社

本当にこの通りだと思う。言葉によるコミュニケーションは大事だが、それで伝えられないものは確実にある。本を一冊読む体験ですら、見える世界は大きく変わる。しかし、その世界を相手に説明することのむずかしさを考えれば、事の困難さがわかるのではないか。本を一冊読んで変わる世界をかんたんに伝えられるなら、わざわざ10万字もの活字にする必要はないだろう。

政治の問題にしても社会の問題にしても、自分が見えている範囲だけで相手を激しく糾弾する光景をしばしば見かける。SNSでは特にそうだ。

しかし、まずもってやるべきは相手の真意はどこにあるのかをしっかり探ることではないか。それをやらずに自分が見えている世界だけで判断して相手を攻撃するのはどうなのか。人それぞれ見えている世界は異なるのだから、相手が見ている世界を知る努力がそれぞれに必要だ。そして、努力しても同じ世界はけっして見れないことも肝に銘じておくべきだろう。

だから生産的な議論においては人格攻撃はNGとされるし、相手が見ている世界は自分とはちがうという前提に立って、お互いの立場や見方を尊重する姿勢が大事になる。「マイケル・サンデル教授の白熱授業」などに出てくる海外の人を見ると、この辺りの議論の作法をよくわきまえていて、議論慣れしていると感じさせる。

コミュニケーションはかようにむずかしいものではあるが、かといって、共通の目標を達成するためには不可欠でもあるので、その不完全さを理解しながら使っていくのが望ましいのではないかと思う。

(出来事を抽象的に書いてしまったので、わかりづらい感じになってしまったかもしれない…。)

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