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小悪魔レンピッカと「狂乱の時代」

アール・デコの熱狂のなかで

熱に浮かされたような時代が、歴史のなかにふと姿をあらわす。まさに熱病だ。赤い波がつぎつぎと押し寄せてきて、荒い息をしているのにもかかわらず、自分が病気なのかどうかさえ、もうわからなくなっている。

たとえばヨーロッパの美術界や建築界がアール・デコにわいた1920年代もそうだろう。その中心地となったパリにタマラ・ド・レンピッカという画家がいた。

その絵に登場する女性たちの肌は、ブロンズのような鈍い光沢をはなち、なかでもメタリックな乳房は幾何学的で直線的なシャープさをそなえていた。
あたかもメタルのように感じられる乳房。それはひんやりとして冷たく、硬質なテクスチャーをもち、それでいてなまめかしく、官能的で、どこか危険な気配を漂わせている。

ときにはそれが悪趣味なまでの原色や堕落的な装飾性をともなって、見る者の感情をあやしく揺さぶりさえする。絵のなかの女性たちは、レンピッカ自身にとてもよく似ていた。

レンピッカは1898年にポーランドの名家に生まれている。父は弁護士で、なに不自由ない暮らしだった。
ヨーロッパの上流階級では、ある年齢に達したこどもたちを、全寮制の私立学校にいれる習慣がある。そこでは厳格な教育と共同生活をとおして、学業だけではなく、社会的なスキルやマナーを教えこまれる。
20世紀の初頭であれば、男子はボーディング・スクールと呼ばれる寄宿学校で自立心や社会性を養い、女子はフィ二ッシング・スクールで学ぶことにより社交界デビューにそなえた。フィニッシングとは「仕上げる」というような意味で、「これならだいじょうぶ」という女性に育てあげるという意味だ。

彼女、すなわちレンピッカもまた、スイスのローザンヌにある全寮制の学校に入学した。ところが在学中に両親が離婚するという事態に見舞われる。そのあおりをうけて、彼女は母親とともに帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに移り住むことになった。叔母をたよってのことだった。

この街で、彼女の早熟性が発揮されることになる。
移住の翌年、オペラ劇場で見かけたハンサムな男性に恋をした。15歳の少女の愛の求め方はときに暴力的だ。彼女は考えられるかぎりの手をつくしてそのスマートな美男子の気をひき、16歳で結婚する。相手はレンピッカの父親と同じで、ポーランド人の弁護士だった。

レンピッカ、花の都パリへいく

1917年、19歳のときにロシア革命が起きる。

レンピッカは夫に銃殺の危険が迫っていることを知った。ふたりは国外に脱出し、ヨーロッパ各地を転々としたのち、パリにたどり着いた。
といっても没落貴族の逃避行である。
ふたりは宝石などを売りながら生活したが、それもやがて底をつく。すると、彼女はフランス人画家のモーリス・ドニのもとで絵を習いはじめた。
ドニは50歳になったころで、若いころには幻想性のある装飾的絵画ナビ派の中心人物として活動し、やがて宗教絵画に転向。すでに社会的名声をえていた。
レンピッカがこの画家のことを知らなかったはずはない。おそらくは用意周到に画風を見きわめ、みずからの作風をつくりあげていくうえで最適な師と考えたのだろう。

じっさい、レンピッカの絵は独特の光を放ちはじめる。
官能と冷たさをあわせもったそのタッチは、華美な装飾性と直線的な機能性をかねそなえたアール・デコの潮流にフィットした。19世紀末のナビ派の幻想性をもちあわせつつ、ナイフの輝きのような鋭利さと華やかさがあった。
しかも、レンピッカは出会う人たちを虜にする不思議な魅力をそなえていた。
とうぜんのように絵は高く評価され、彼女は豊かさと名声を手に入れていく。夫とのあいだに生まれたひとり娘をいち早く全寮制の学校に入学させたため、レンピッカ自身には自由になる時間も多かった。上流階級との交際がはじまり、彼女は情事にふけっていく。
最初から彼女に強い野心があったのかどうかはわからない。ロシアは大国とはいえ、パリから見ればヨーロッパの辺境だった。そこからやってきたレンピッカに、パリという街が欲望の種を植えつけてしまったのかもしれない。

都市はいつだって人を誘惑する。

しかし、連れ立ってきた夫はそんな暮らしに疲れはてていた。1927年、ロシア革命のあとふたりでロシアを脱出して10年がすぎたこの年、ふたりは別居生活にはいり、翌年、離婚した。
いったん回りはじめた欲望の車輪は、もはや止めることはできない。加速しながら、ガランゴロンと回りつづける。

そのころ、レンピッカは裕福な美術蒐集家ラウル・クフナー男爵をパトロンにしていた。この男爵の紹介で、ドイツの女性向け高級ファッション誌『ディー・ダーム』(Die Dame)の仕事をうけることになった。当時この雑誌のもつ影響力は絶大で、ヨーロッパ全域のファッション界はもちろんアメリカやアジアなどにもおよぶものだった。
1929年、レンピッカの絵がこの雑誌の表紙を飾った。それがレンピッカの代表作となる『オートポートレート』である。

メタリックで、プラスティックな彼女

そこには緑色のブガッティに乗った自画像が描かれていた。その目はぞくっとするほどの冷ややかさをたたえ、ハンドルにかけられた指は豪奢な青銅色の輝きをはなち、そのからだは精巧なアンドロイドを思わせた。

ここではレンピッカとブガッティが一体化している。

一見メタリックなボディだが、ちょっとした衝撃によってさえ砕け散ってしまいそうな<壊れやすさ>をあわせもつ。まるで繊細に造形されたプラスティックのようでもある。金属的でありながら、自由な造形が可能で、合成樹脂やセルロイド製品、あるいはビニロン繊維といった人工的な気配をかねそなえている。

こうして彼女は狂騒の1920年代を駆け抜けていった。アール・デコの時代というコスチュームは、レンピッカの生き方によく似あったのだ。
パリの1920年代を「狂乱の時代」(レ・ザネ・フォル=les années folles)と呼んだりもする。

この時代を象徴したのがギャルソンヌ(garçonne)たちだ。たんに女の子たちという意味で、英語ではフラッパー(flapper)といったほうが通りがいい。当時、欧米で流行したファッションや生活スタイルを好んだ新しい世代の女性をさしている。
それまで女性らしいとされてきた装いや行動様式、社会的規範から逸脱し、彼女たちはひざ丈の短いスカートをはき、顔には濃いメイクアップをほどこし、髪の毛はショートヘアのボブカット、新しい音楽だったジャズを好み、タバコを吹かしながら強い酒を飲んだ。性交渉、ドライブなど、刺激的なものに関心を示し、積極的にそれらに溺れたわけだ。

背景には第一次世界大戦を経験したあと、まだ混乱のなかにあったのヨーロッパで、 “社会的な熱病”が若者たちを中心に大流行したわけだ。

しかし、泡のような繁栄が、長くつづくことはない。あらゆる繁栄には、すでにそれが形成される過程のなかに崩壊へのデインジャラスな要素が組みこまれている。レンピッカの絵が「ディー・ダーム」の表紙を飾ったまさにその年の秋ことだ。

1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株の大暴落が起きる。
暗黒の木曜日」と呼ばれる一日である。
翌週の火曜日にも株式市場は大幅な下落に見舞われると、またたく間にパニックが広がり、大恐慌が世界を襲った。株価の下落は1932年までとまらなかった。レンピッカのメインバンクも倒産し、彼女も深い痛手を負うことになる。

しかし、その崩壊は彼女にとって一時的なものだった。すくなくとも表面的には。というのも、絵はその後も売れつづけたのだ。
1934年にはクフナー男爵と再婚し、金銭的にも身分的にも、ポーランドにいたときのような上流階級の暮らしを手にいれることになったのである。

ただ、もう一度いうが、あくまで表面的には、ということである。欲望の車輪は止まらない。それが止まるのは、みずからのの力で、自らを破壊してしまうときだ。
              (序章 資本主義とエロティシズム 1/4)



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