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【雑記】Twitterという船の上で

以下、唐突につぶやく場所を奪われた人間が耐えきれずに書いた雑記
全てにおいて個人の感覚と感想なので悪しからず

ことの発端

2023年2月3日 0時42分
それは突然、メールの通知と共に襲い掛かってきた。

Twitterからのお知らせです。 ご利用のアカウント(euphoniumG59)は、Twitterルールに違反しているため凍結されました。

最初に見たときは、いつもの詐欺メールだと思った。Amazonだのセゾンカードだのオリコだのを騙った不届き物が寄越してくるのと同じ類だろうと思いながら、通知を上にスライドしてTwitter公式アプリをいじくっていると、すぐに異変は起きた。アプリにも同じ表示がされ、タイムラインの更新が止まり、こちらから発信するありとあらゆる動作が出来なくなった。そして私はフォロワーの画面から姿を消してしまった。

俗にいう「凍結祭り」である


オンラインの「緩やかな死」

その後は皆さんご存じのように阿鼻叫喚となった。
凍結されている側から見える世界は「構築したタイムラインは消え、こちらからの発信は全くできない」「しかし他のユーザーのホームまで行けばツイートは見れるし検索機能も使用できる」というものであり「この人が凍結されるだなんてどう考えてもおかしい」「どうして○○さんが……」とフォロワーさんが慌てふためいて言ってくれるのを反応もできずに見ていることしかできなかった。
「もしかして、死んで幽霊になった時の気分はこうなんだろうか」と感じたのが、生きながらにして死の気配を感じた最初の一つ目だった。

凍結されながらも情報集め、凍結を知らせる通知から公式サポートへ異議申し立てをすれば良いと知り、できることを全て行った。何もしていなければすぐに解除してもらえると信じて迎えた2月4日の0時。続々と凍結が解除されたという声が私の周りで盛り上がった。私というオンラインの死人を一人残して。

そして2月8日現在、アメリカが週明けを迎えた今でも私のアカウントは凍結されたままである。情報を得るためにフォロワーのホームを覗きに行くと、凍結など無かったかのようにいつも通りのつぶやきに戻っている。当たり前のことだ、他の人にとってはいつも通りの日常なのだから。当たり前のことなんだと頭では分かっていても、死んでいなくなってしまった後はこうして忘れられていくのだろうかと寂しい気持ちになった。これが死の気配を感じた二つ目だった。

死して新天地へ

とはいえ落ち込んでばかりはいられない。現実にいる私は生きているのだから。
不幸中の幸いか、凍結される前から「いつTwitterが無くなってもおかしくはない」と言われていてその時点でいくつか避難先を用意していた。今思うと当時の自分を褒めてあげたい。更に言えば私にとってTwitter自体がmixiからの移住先なので、移住することについてはそこまで気負うことでもなかった。現在はTwitterのつぶやきに一番感覚が近い「くるっぷ」というサービスをメインに、今日も可愛いメロディーレーンちゃんを見るためだけに維持していたInstagramや、離れる際に最低限の機能だけを残していたmixiを久しぶりに起動させて生存確認程度につぶやいている。

そして、凍結祭り勃発直後には同じオタクコミュニティに属するフォロワーの有志の方々が、mixiのコミュニティや昔ながらの掲示板などの避難先を用意してくださった。自分で用意した避難先があるとは言え、人がいない場所にひっそりと作った場所では情報収集に難がある。情報が集まりやすい場所を作って頂けたのはとてもありがたかった。
しかし、運用され始めたその場所は、様子が自分が想像していたものとは大きく違っていた。

会話の無い新天地

掲示板もmixiのコミュニティも開設時こそは人が大勢いた。しかし、全員が全員「記念カキコです」としか書き込まない。その中で話題の発端になりそうな書き込みが現れても、ツリーが伸びずどんどん後ろへと流れていく。情報が集まる場所であるはずなのに、肝心の情報が全く留まらない。そんな状況を他の人が「手ごたえ無し」と思ったのかは定かではないが、2月4日の一斉解凍があったことを知らせる書き込みを最後にあっという間に人はいなくなった。結局、みんな元いたTwitterへと戻って行ってしまった。mixiのコミュニティも、概ね似たような流れで人はいなくなった。

競走馬のシンボリルドルフよりは年下で、同じく競走馬のトーカイテイオーよりも年上という年代に生まれた私がインターネットに生まれて初めて触れた時代は、個人サイトと個人ブログの全盛期だった。オンラインでの交流と言えば個人サイトの掲示板が主流で、よりリアルタイムを求める場合は同じく個人サイトのチャット機能を使用していた。より個人と親密になった場合はメールを交換し、もう少し時代が進むとMSNメッセンジャーやSkypeを利用して音声通話をする、というのが当たり前の時代だった。mixiが登場して個人サイトや個人ブログを持たずとも簡単に文章を投稿できるようになった後も、そういった雰囲気はあまり変わらなかった。

その頃の掲示板がどういう雰囲気だったか、記憶を辿っていくと大なり小なりもっといろんな情報が飛び交っていたように思う。無論、全盛期でも過疎化する掲示板というのは当たり前にあった。でも流石に一律同じような内容で埋まるということは無かった。何故こうなってしまったんだろうと思いつつ、一人で少なくなった書き込みに返信をしたためていると、ふと一つの要因が頭に浮かんだ。「今こうして書き込んでいる返信はTwitterのリプライに相当するもので、もしかしてみんな、リプライをすること自体が出来なくなっていってるんじゃないか」と。

降りられない船

Twitterは個人の独り言が山のように積みあがってタイムラインを形成している。気になったつぶやきにリプライを飛ばすことはあっても、それは週に1回2回あればいいほうで、基本はいいねを付けるかリツイートして拡散するかの2択だろう。最近ではタイムラインにいる人だけに伝わればいいという趣旨で宛先も無くただ虚空に向かって声をかけたり、リツイートやいいねの反応をした後に宛先無しで話をしていくといった「空リプ」という手段で交流をするのが、気楽で良いということで私の周りでは慣習化されていた。自分や相手のタイムライン上に分かるように表示されればいいので、虚空に向かって宛ても無くつぶやいていても、実質それで事足りていたのだ。
要するに「Twitterの一人で呟きながらも緩やかに繋がれる機能に慣れきっててしまい、他人に直接話しかける経験が自然と無くなってしまった」のである。リプライは交流のある本当に親しい一部の人たちだけに送るか、意を決して思いを伝えるという特別なツールになっていて、あまり不特定多数に気軽に送るものではないというのがうっすらと暗黙の了解となっているように感じる。
そのなかで普段の交流が無くとも気兼ねなくリプライを送る機会と言えば、誕生日に風船が飛んだ時などのお祝いのリプライぐらいだろうか。穿った目で見れば「おめでとう」という定型文に沿って文面を考えれば当たり障りのない言葉が書けるので、気軽に送れるというのはあるだろう。年賀状のような季節の挨拶によく似ているし前項で出した「記念カキコ」も恐らくその類だろう。ただそれですらも気が引けて、いいねを押して終わりにするという人も、もしかしたら見えていないだけで大勢いるのかもしれない。

これはあくまで一部のオタクコミュニティでの慣習なので、他のコミュニティが実際にどういう交流をしているのかは分からない。だがそういったコミュニティが今回の大規模な凍結祭りを機会にTwitterという船から降りて新天地へと足を踏み入れてみたら、環境の変化に耐えきれずに降りたはずの船へと戻っていってしまった。mixiのコミュニティや掲示板はまさにリプライをすることが交流の前提となっている場所で、誰かの書き込みに対して誰かが返信しないと場が盛り上がらない仕組みになっている。自分が発端となって書き込むにしても、話題をひねり出して書き込まないといけないのでそれなりに労力を使う。人と交流をするということは、どうしたって疲れることなのだ。その疲れる要素を可能な限りとっぱらって、なお且つ労せずに個としての承認欲求を程よく満たしてくれるツールは今のところTwitterぐらいしかないだろう。
ここまで掲示板を例に挙げてつらつらと書いてきたが、Instagramにしてもアップする画像を選ぶ労力が発生するし、mixiもなんだかんだでメインは日記とコミュニティでの交流な上に「足あと」機能というLINEの既読表示以上に厄介な機能があるので合わない人にはとことん合わない。機能の内容としてはくるっぷが一番近しいが、もともと創作をする人向けのサービスであるせいか昔のpixivよろしく「創作をしない人間からすると肩身が狭い」と感じるようで、そういった人達がどう折り合いをつけられるかが今後の鍵になるのかもしれない。何にせよ、Twitterに変わる場所が見つからない限り新天地へと足を伸ばす気にはならないのだろう。

船から降りることが出来ない私たち

経営者が変わり「いつサービスが無くなってもおかしくない」と言われ、あげくこの凍結祭りによって「自分もいつ凍結されるかわからない」という恐怖にさらされてなお、私たちはTwitterという船から降りることが出来ない。たとえ沈みそうになったとしても、タイタニック号で最期まで演奏を続けた音楽家たちのように、つぶやくことが出来なくなるその日までずっとツイートという名のさえずりを奏で続けるのかもしれない。今こうしてこの文章を書いている私ですら「凍結が解除されなければ新しいアカウントを作ろう」と考えているのだから、本当に業が深いサービスである。とは言えど、流石にこのサービスと心中するのはごめんこうむりたい。私はギリギリまで居座りつつ、どうにもできなくなったらさっさと逃げるつもりである。

というわけで現状、Twitterに居られなくなってしまった私は他のSNSサービスも使いつつ、過去の経験を掘り起こしながら人のいなくなった掲示板で書き込みを続けている。Twitterが本当に海の底に沈んでしまう前に、ウザいと思われない程度に新天地をつなげて行ければ良いなと思いながら。


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