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ハーベスターの二つ星 第1話

1


 野庭はなか(のば・はなか)が新渡第一高校に合格したのは、ピアノに挫折してから一年後のことだ。

 まだ寒さが残る時期で、一緒に発表を見に来た木田一海(きだ・かずみ)――あだ名はイチミ――が薄めのストッキングを履いている。はなかより肌が浅黒いので寒さに強いとかいっているが、どうだろう。イチミは掲示板に張り出された番号をスマホで撮影し、はなかの肩を揺さぶった。

「はなか! 出てる! うちら番号ある! うわーやったああ! 合格じゃん! マジ落ちたらどうしよってヒヤヒヤしてた! あああ良かった! カラオケ行こカラオケ!」

「まだ来たばっかりなんだから落ち着きなさいよ」はなかの対応は冷静だ。だいたい予想した通りの結果だ。合否発表なんてネットでも見られるのだから、寒いのでやめようとはなかはいったが、イチミはいままで勉強漬けだったので早くカラオケに行きたかったのだ。

 はなかの目は、早くも掲示板からスマホで出した動画サイトに注がれる。合否発表の日には行事が重なる。動画サイトの名前は『ハーベスター』で、ここ1年ぐらいで急成長しているサイトだ。注目しているアーティストが、特別なイベントをしていないかチェックしたかった。自分と同い年なのにもう芸能事務所に所属していたり、ピアノアーティストとしてデビューしている人もいるのだから信じられない。

 はなかの周囲に天才はいない。はなかが住んでいる新渡市はそこそこ栄えた地方都市だが、田舎だ。周りにいるのはみんなイチミみたいな友達だし――イチミを悪くいいたいわけではないし、彼女はピアノに挫折したはなかを助けてくれた――以前通っていたピアノ教室の先生も含めて、天才に会ったことがない。新渡を隅から隅まで探せば、一人ぐらいは天才がいるかもしれない。しかしそんな奴はさっさとこんな田舎に見切りをつけて、東京か海外に進出するだろう。

 はなかが自分の才能に見切りをつけたのは、ピアノ発表会に出た時からだ。あの時が12歳。ピアノのプロは神童としてデビューしているか、著名な先生に師事している年齢だった。

 ピアノを始めたきっかけは特に覚えていない。母が何か勧めたからで、それ以上でもそれ以下でもなかった。バイオリンか声楽か、別な競技に進んでいてもおかしくなかった。

 はなかが挑んだのはショパンの『革命のエチュード』だった。ショパンの大傑作ともいえる激しくも情熱的な曲で、なにより同じ曲を弾いたハーベスターの再生回数が2000万再生を超えていた。ピアノの先生ははなかの挑戦に対して、「もっと弾きやすい曲にしましょう」とたしなめた。先生のいい分は正しい。これが1万人も来る演奏会ならば話は違うが、はなかが通っている教室が主催する演奏会には、はなかの父と母含めて50人くらいしか観客が来なかった。どうしても背伸びする必要があるのだ。

「ショパンはいいけれど、『革命のエチュード』は強すぎるわ。普段からたくさん練習してるのはわかるけど……でもはなかさん、レッスンでは『別れの曲』を練習してるじゃない。あれを弾きましょう」

「『革命のエチュード』にします」とはなかは断言した。自分がかなり生意気な態度を取っていることは理解していたが、最初からこれで行くと決めていた。「あの曲、好きなんです。それに自分が一番得意で、一番弾ける曲です。お父さんに聞かせたいんです。お父さん、初めて聞くから」

 父が単身赴任のせいで、はなかのピアノ演奏を聞けていないのは事実だ。スマホで映像を送ることはできるが、父は生で聞きたいと熱望していた。今回の演奏会は、父が客席でピアノを聞くことのできる二度とない機会だ。父は一ヶ月前から予定を空けていたし、有給を使ってでも演奏会に来る算段だった。そんな父に、『革命のエチュード』のような難しくて情熱的な曲を聞かせて、心底から自分に驚き、称賛の声を上げてほしいという意思も本当だ。お母さんに自分の成果を披露したい気持ちもあった。

 だが実際は、ハーベスターの2000万再生に負けたくなかったのだ。なによりも勝ちたかった。勉強のつもりで見た動画に、はなかは反骨心を煽られた。動画の手付き、指の動きに負けない演奏をしたいと本心から願った。

 自分には絶対にピアノの才能があるとはなかは思っていた。何かの偶然で世に出ていないだけで、自分には卓越した一流の才能があり、然るべき場所に出れば世界がそれに倣うと確信していた。

 演奏会当日。ピアノの前に立っているだけではなかは汗びっしょりになった。

 先生が合図して、ピアノの前に座った。

 汗がこもる五分間だった。正直、スポットライトに照らされピアノの前に着席した瞬間から、はなかは何も覚えていない。気づいたら鍵盤を叩き終わっており、さざなみのようなひっそりとした拍手(始めたのは父だ)が広がっていくところだった。はなかは礼をして舞台袖に引っ込み、座ると腰が抜けた。

 その日の夜、お父さんとお母さんの三人で外食をした。高級なお店だったが、父が何を頼むにもニコニコとした顔でいて、「あの曲は本当に良かったわ」と母が1万回くらい繰り返したことを覚えているだけだ。はなかはなんとなく高級な味がするソテーを味わいながら、自分は才能を見せつけたのだ、と考えていた。

 自分の才能などいくらでもないと思い知らされたのは、1週間後にピアノ教室がハーベスターにアップした動画を観てからだった。演奏会の動画は200回再生もいっていなかったが、まだはなかには余裕があった。しかし、カメラに自分の姿が映ると余裕が消えた。

 演奏は開始からお粗末だった。かすかに見える映像に合わせて記憶が取り戻される。あまりの下手さに脳が思い出すことを拒否していたのだ。カメラが捉えた音は不格好だった。あの時、死力を尽くして出した音とは到底信じられない。わずか数分の間で、はなかは悪い意味で次々変化していた。最初の一分は、泥まみれで転げながらもがく演奏。次の一分は、もがくコツを掴んだように、手が早くなり遅くなる。クライマックスへ向けて、はなかは無茶苦茶な手付きで不格好に盛り上げていく。

 最後の数秒は、さながら運動音痴が200メートルを走りきった終わり方をしていた。おめでとう! 無事に完走できたね。着替えてケーキでも食べに行こうよ。記録? 終わったんだから気にしないで。そうだ! ケーキ食べたら映画行く?

 はなかはその場でしばらく泣き、三十分もするとノートパソコンが点いたままになっていることに気づき、乱暴にモニターを閉じると、勢いで壁に投げつけてしまった。ドタンブチッとケーブルがダメになる音が聞こえたが構わない。もう自分のピアノは終わったのだから、他の物事がいくらダメになっても構わない。

 自分は一流ではない。あれほど猛練習を重ねてもあの程度だったのだ。これから上達できるか自分でわかる。母のところに行き、はなかはピアノをやめたいとかそういうことをいった。母が何と答えたのか覚えてないが、彼女が持ち出した小冊子のタイトルは覚えている。『ピアノマンになれなかった人たち』という恐ろしいタイトルだ。

 はなかの記憶と生活は一気に散漫になり、ピアノ教室の退会までは時間がかからなかった。先生との話し合い――練習――また話し合い、棘のある説教(あなたより才能がなくてもデビューする人がいるわよ)――練習――そして退会。『ピアノマンになれなかった人たち』を改めて読むと、人はピアノをやめると楽器を変えるか、働きながらピアノ教室を開くらしい。パンフは捨てた。

 ピアノを捨てなかったのは、捨てる事自体にお金がかかるし、部屋に何もなくなるからだ。つまるところ、はなかの生活はそれまでほぼピアノに支配されていたことになる。

 それが中学2年生の時だ。ピアノから抜け出したはなかは、生活の穴を埋めるようにクラスメイトと仲良くしはじめた。それまではピアノが無二の親友だったが、親友はいなくなった。はなかは未来に対する期待をなくしていたので、人間関係に対する期待もなくしていた。しかし中学2年生で同い年のイチミははなかを迎え入れてくれた。それまではなかは、イチミの肌が浅黒くて、きれいに化粧していることにも気づかなかった。ピアノに没頭しすぎていたのだ。

 イチミはもともと幼馴染だった。小学生のはじめからピアノに熱中するはなかを見て、イチミははなかを心配していたらしい。まるで第二のお母さんみたいで、はなかはズタズタの精神状態だったが、イチミと話しているのを癒やされるのを感じた。イチミの導きで、はなかは女子のサークルに問題なく戻ることができた。それまで考えたこともなかった化粧もした。イチミのグループで猛勉強して、新渡第一高校へ向けて突き進んだ。はなかはピアノで培った未来予測と、自分に対する無慈悲なほどの客観性を持っていたので、イチミたちが大いに心配していたにも関わらず、自分たちがスムーズに合格できることは理解していた。

 母ははなかが急激に一般社会に戻っていくことに懸念を示したが、父は賛成した。そればかりか、はなかが友達と遊びに行くようになり、部屋にピアノ以外の物が増え始めたので喜んだらしい。もうピアノの演奏を聞きたがったり、演奏会をせっつくようなことはしなかった。あの『革命のエチュード』の演奏会が最初で最後の演奏会になったが、父は満足げだった。

 どうして父がそんな態度を取れるのか、はなかはイマイチ理解できなかったが、いつものように父が出張に行き、二人きりの夕食で、母がいった。

「お父さんさあ、若い時バンドやってたけれど、はなか知ってた?」

「なにそれ。初耳」

「なんだか、大学でイギリスのバンドにハマっちゃって、大学を中退して音楽始めたのよ。流しのミュージシャンやったり、ライブハウスに入り浸ったりで、一年ぐらいやっていたのかしら。でもうまく行かなくてねえ。メンバーと喧嘩したり、アルバイトをクビになったりで色々あって、やめたの。バンドも解散したみたいでね。私はお父さんが音楽やめてから出会ったけど、お父さんその時のこと話してくれないのよ。CDとか一枚も出してなかったみたい」

 母の話を聞いてはなかは納得した。そうか、お父さんも何かに負けた経験があるのか。だからはなかの才能の濃淡も知っているのだ。

 そしてはなかは高校一年生になった。

2


 八雲幸太郎(やくも・こうたろう)は自己紹介で、開口一番「声優目指してます」といった。

 これにはクラスが湧いた。大半の生徒は薄笑いだったが、隣の席の男子が「あやねる知ってる!?」と叫んだので、笑いに火がついた。はなかは特に何も思わなかったし、自己紹介も普通にした。ピアノには一言も触れなかった。

 木田一海――イチミは隣の席だった――も自己紹介では普通だったが、化粧を慣れているので、男子からかなりじろじろ見られていた。しかしイチミはいつものようにスルーして、いつものように女子グループの頂点に君臨した。ところが初めての音楽の時間で、イチミははなかに妙な気を遣ったらしく、「野庭はなかさん、ピアノ上手なんです!」と口にした。

 はなかが渋い目をイチミに向けると、彼女はテヘペロという顔で頭をこつんと叩いた。ギャルの挙動に男子が歓声を上げた。先生は数節弾いてみたらとはなかに促したので、結局習っていたショパンを弾く羽目になってしまった。もちろん『革命のエチュード』ではなく『別れの曲』だ。

 ピアノは本当に久しぶりだったので、腕が鈍っていた。もうプロは無理だな、と無意識に考えて驚いたほどだ。しばらく聞いていた先生は、「胸が温かくなる演奏ですね」と感想を述べて、生徒たちも拍手した。

 しかしはなかは自分がやり玉に上げられたようで面白くなかった。なので、自己紹介で面白いことをいった八雲を血祭りに上げることにした。

「先生、八雲くん声優目指してるんですけど。声でプロ目指すんだから、きっとオペラも行けると思います」

「えっ」と先生はいって、八雲を見た。彼は涼しい顔で目を逸らす。はなかは直感的に察した。練習してない奴だ。声優云々も受け狙いに違いない。そもそも真面目に目指してるなら空き教室でもグラウンドでも練習してないのはおかしい。はなかの指にはピアノにしごかれた跡があるというのに、こいつの喉には練習の形跡がない。新渡第一高等学校には演劇部が二つもあるのに、所属した話も聞いていない。

 つまりこいつはでまかせをいったわけだ。

 バケの皮を剥がしてやる。

「アニメとかは授業にそぐわないから良くないけど、リートならあるわよ」音楽の先生はおとなしそうで、態度も控えめだった。「難しいなら、軽くハミングしてみるとかでもいいけど……」もちろん声には、『いやならやめていい』という響きが込められている。そもそも合唱ならともかく、大抵の男子にとってソロで歌うことは苦痛以外の何物でもない。

「聞きたいでーす」男子生徒の一人がいった。《あやねる知ってる!?》の生徒だ。女子が唱和した。クラスの人間が本物の演技なんて求めていないことは知っているし、そもそもリートや歌曲なぞ知らないだろう。大事なのは、八雲幸太郎が恥をかくことだ。

 しかし辞退すると思われた八雲幸太郎は「やります」とリートの本を受け取った。「低い声とか興味あったんで、ぜひ演じたいです」

 たぶん一番驚いたのは先生だろう。はなかも顔に出していないだけで、同じだった。立ち上がった八雲がはなかに声をかけた。

「『魔王』……かな。野庭さん、シューベルト弾ける?」八雲の目が異様なほどまっすぐで、どこかで事態の全てを了解しているような含みがあったので、はなかはたじろいだ。しかし外には出さずに頷く。

「昔ちょっと練習したけど……でも、いいの?」

「問題ないっす。じゃあ『魔王』やろうか。お願いします」八雲はピアノの前に立ち、全員に一礼する。はなかは慌てて体勢を整えた。

 八雲が、クラスの誰一人聞いたことがない声を出した。岩を削り出したような、少年に似つかわしくない声だった。八雲がはなかに振り向き、微笑みながら指で合図した。本気の、鬱屈も屈託もない笑みだったので、はなかは心底からの恐怖を感じた。

 シューベルトの曲はピアノ教室でさんざん練習したので問題はなかった。だが始めると、自分の拙さが目に余る。指と指の結合がうまくいかない。親指も動きが悪い。はなかの演奏を聞きながら、八雲が口を開いた。驚くべきことにドイツ語ではないか。リートの本でも日本語しか載っていないのに。

「……〈お父さん、お父さん! 魔王のささやきが聞こえないの?〉」練習のバリトン声とは違う、ソプラノの音階だった。魔王に魂を連れ去られる少年だ。裏声なのに、信じられないほどすらすらと聞こえる。教室中の嘲笑が失せた。「〈落ち着くんだ坊や、枝葉が風に揺れているだけだよ〉」と別の声で答える。声が少し上ずったと思ったのは、はなかがピアノの調子を間違えたから、八雲がわざと合わせたのだ。

 天才だ。ちくしょう、この野郎天才だ。はなかが耳にした、練習していない声とはなんだったのか――答えは明白だ。八雲は隠していただけだ。おそらくははなかに、おそらくはクラス全員に。

「……〈お前が大好きだ。可愛いその姿が。いやがるのなら、力ずくで連れて行くぞ〉」びりびりと震える別な声で発せられる。魔王そのもののような、おぞましく震える声。嵐のような声だ。「〈父親は恐ろしくなり、馬を急がせた〉」語り部の別な声が被さる。一人……四役か? ピアノはどうだ?

 八雲が観衆(女子は初日とはまるで違う態度で八雲を見ている)を見回しながらはなかを見た。こちらの心理を悟っている声で、はなかは悲鳴をあげそうになる。


 バケの皮を剥がされたのはこっちだった。

3


 1週間後の朝。はなかが登校すると、玄関の靴箱に刻印されている31番の数字が目についた。忘れられない八雲幸太郎の番号だ。なにげなく下駄箱を開けると、手つかずの八雲の内履きが入っていた。

 はなかの脳裏に、八雲の靴をズタズタに引き裂くイメージが鮮明に浮かぶ。まるでこれから実行するようにリアルで、内履きは靴底に穴が開き、靴紐までバラバラになっている。凶器は自分の筆箱の中にあるハサミだ。最後にはカッターまで用いている。内履きは自分のカバンに隠せば、見つからないだろう。

 一瞬考え込み、下駄箱の中に手を伸ばした途端、「野庭さん?」と声をかけられた。

 犯行現場を見られた人間特有の敏捷さで、はなかは手を引き抜いた。声のした方を振り向くと、八雲幸太郎が立っている。

「そこ、俺の靴。場所間違えたの?」

「え……いや……」はなかはゆっくりと場所を確認して、勘違いした素振りをした。「ちょっと寝不足で、頭がふわふわしてて……ごめんね」

 寝不足なのは事実だった。八雲=天才という図式が去来した音楽の授業の日から、はなかの頭では《八雲》という単語と《天才》という単語がなぐり合いを続けている。試合時間は決まって風呂上がりの夜11時からで、たいていは朝まで続く。

 このまま八雲と会話をしているとおかしくなりそうだ。はなかは自分の内履きを取り出して離れようとするが、その背中に「野庭さん」と八雲が声をかけた。

「ちょっと話があるんだ。中庭、行かない?」八雲の声は平坦だった。まさか内履きの件を感づかれていたのか――はなかはそう考えた。別なこともあるかもしれないが、そこまで考えられる心の余裕はなかった。

「いい……けど」断る胆力はない。はなかは上の空で返事をして、八雲についていく。一体何をされるのだろう。もしかしたら謝罪を求められるかもしれない。

 ホームルーム前の中庭は校舎の喧騒でやかましい。生徒はみんな教室に入っているせいか、中庭には人気がない。寒々しい風が吹く。八雲はあちこち廊下の窓を見たが、中庭を見ているヒマ人はいないようだ。視線が向いていないのを確認した彼は、「こっち」とはなかの袖を引いて、いまは焼却炉の陰に連れ込んだ。使われなくなって時間がかなり経過しており、単に置いてあるだけのものだ。

「それで、ヘンな感じにとらないで欲しいんだけど」と八雲は切り出した。一方のはなかは、焼却炉の縁に腰掛けながら眠気と戦っていた。一時間目は数学の授業だ。まるで興味がないから本当に寝てしまうかもしれない。そうしたらイチミに――

「野庭さん、俺とユニットを組もうぜ。野庭さんのピアノと、俺の声でデビューしたいんだ。一緒にやってくれ」

 朦朧としていた意識が現実に戻ってくる。何をいわれたのか理解できない。目をパチクリとさせて八雲を見たが、やはり頭が追いついてこない。

「ユニット?」

「そう。ユニット。二人組で活動したい。場所はハーベスター。6月までプロアマ同時募集してる。父さんに確認したけど、関連企業もきちんとしてる。楽曲販売も考えてる」

「なんで?」はなかは本心から聞いた。《八雲》《天才》がなぐり合いをしている最中に、《ユニット》《デビュー》という単語が踊り込んできた。

「俺の考えだけど、野庭さんには才能がある」八雲は切り出した。声に嘘は感じられない。顔には、あの音楽の時間には見られなかった脂汗が浮き出ている。「ガキの頃から、宝塚とかショパンの発表会とかいろいろ聞きに行ったよ。俺、父さんが役者でさ。仕事の関係とか、そうでないのも含めて、いろいろと連れて行ってもらったんだ。いろいろ演劇とかハシゴしてるうちに、野庭さんのピアノも聞いた」

「ピアノ」はなかはオウム返しに繰り返し、意識は汗がこもる発表会に戻ってくる。「あのピアノ、聞いたの?」声には疑問とともに恥ずかしさの感覚も含まれている。

「うん。『革命のエチュード』聞いて、ああ凄いな、世の中こんなピアノがあるんだなって初めて思った。俺、声がうまいとかよくいわれるんだ。この前映画の『フェイクの恋』とアニメ映画の『アート!』に出してもらって、クレジットにも載った。でも、周りの声優とか俳優さんとか見て、一人で売り出す自信なかったんだ。母さんと『アート!』の監督はメッチャ褒めてくれたけど、父さんは芸能界なんざやめろって一点張り。俺なんなんだろうなって自分で訳解んない感じになってて……たぶん、ハングリーさが足りないんだと思う。別に上を目指さなくても食っていけるっていうか、俺の家、俺が10人いても生活できる余裕あるからさ。性格が草食系なんだと思う。俳優とかにそんな求めてないし、実際の現場入ったけど、『アート!』だと12時間くらい拘束されたし、声優さんでスタッフと反りが合わずに出ていく人も見たし、『フェイクの恋』でも、放り出される役者さんもいたしさ。夢とか、ないんだ」

 彼は息をついた。

「でも野庭さんのピアノは凄い。言葉に……できないんだけど、さっきいったハングリーさっていうか、なんとしてもこの世界で生き延びてやるっていうの……感じたんだ。だから、それって絶対に俺にないじゃん。自分にない物を持ってる人と友達になれって、父さんいってたし……野庭さんと絶対ユニットを組みたいって思った。実際、ピアノ教室にも問い合わせたんだ。でも野庭さん教室やめちゃってて……だけど、自己紹介のときに、顔見てハッとしたんだ。この人だって気づいたから、俺は《声優目指してます》とかいって挑発して、音楽の時間に……コラボしてさ、ああやっぱり俺にはこの人だわ、この人しかいねえな、って思って」

「コラボ……一緒に演奏したね」はなかは頷いた。

「弾いたんだよ! だから、」

「だから引き立て役になれってこと?」はなかは答える。八雲の顔が青ざめた。これ以上言いたい放題させるつもりはなかった。「ふざけないでよ。自己満もいいところじゃん。それ、自分が何でももらえる王子様だから、召使いが欲しいって宣言に聞こえるんですけど。あたしはパズルのピースで、あんたがカチカチはめて、全部ハマればミッションクリアってこと? バカにすんな! 映画だかアニメだか知らないけど、あんたみたいなのがふわふわしてる間に、こっちは地べた這いずって、ピアノが下手なのが嫌で泣いてんだよ。人にバカにされながら弾いてんだよ。才能がないのに疲れて、気が狂いそうになって、それでもやめられなくて……それがなに? ユニット? 勘違いも大概にして! 単なる自分探しじゃん! 自分が成長したいからあたしに踏み台になれってことでしょ!? こっちは……そんな……理由でピアノやってない! いい加減に、してよ!」

 そもそもはなかは1年前にピアノをやめていたが、そんなことはどうでもいい。持っていたカバンを八雲に投げつけた。他意はなかったが、放り投げたカバンは八雲の顔面に激突し、カバンが落下すると同時に鼻血が出た。八雲は少しうつむいたが、鼻血の出た顔ではなかを見返して、はなかは怯んだ。上の廊下から生徒が見ている。ざわつきが聞こえて、はなかはハッとする。生徒指導の先生とイチミが廊下に並んでいて、上から何か叫んだ。

 八雲がはなかのカバンを拾った。まさか中の教科書を破り捨てる気か、とはなかが恐れていると、八雲は「ん、」とカバンを差し出した。

「悪かった。ごめん」八雲は言葉を続けた。それきり、黙り込む。

「~~……!」はなかは八雲の殊勝ぶった態度に激昂する。平手打ちを食らわせようと思ったが、八雲の鼻血はだらだらと流れ、容赦なくブレザーを汚しているのを見て、勢いが削げた。カバンを引っ掴むと中庭から校舎へ歩き出す。振り向きもしなかった。

《続く》

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