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家が燃える

 火事は一階の台所で始まったが臭いや音はなく焦げ出す雰囲気のみが出現した。

 はじめに母親はフライパンを空焚きしておいたのを忘れてトイレに入った。隣の部屋には赤ん坊が歩行器の中にいて昨夜の夜泣きの跡が残っていた。母親はトイレで用を足したのだが急に暇つぶしに置いてあった小説の発売日がいつだったか気になり始めた。時事ネタが多いシリーズなので刊行ペースがどうしても知りたかった。寝不足で目が痛いので普段なら読み飛ばすところが飛ばせない。年月日を見て後ろからページをめくっていると子どもが泣きはじめ慌てて台所に戻った。

 台所では延々と続いた空焚きの結果として天井に煙がわだかまり、それを見て嗅いだ赤ん坊は今まで見たことのない異質で苦しいものにより泣いた。母親はそれを見て部屋の中に映画で見たようなモンスターが現実にやってきたみたいにたじろいだ。

 母親は消防訓練を受けたことがあってバケツリレーもやったし消火器訓練もした。だが目の前の煙は何より現実的で黒々としたものは全身を毛羽立たせたし子どもがいた。子どもがいる訓練など聞いたことがなかった。歩行器であちらこちらに動く子どもが煙を吸って死ぬかもしれない訓練などこれからもないだろう。

 抱き上げて一番奥のトイレまで避難したのだがその隙に火は近くの戸から木製の戸棚へと燃え移り橙色の炎を広げた。子どもは煙が消えたので一瞬泣き止んだが母親がトイレから離れようとするとパニックになり叫び母親もつい叫んでしまった。だがチャイムが鳴り玄関に定期宅配のおばさんがやってきた。台所から吹き出る煙と音に面食らったおばさんに赤ん坊を押し付けると母親は玄関脇の消火器を上下逆さまにつかんで台所に戻ったのだが炎は上と下の戸棚と床を燃やしフライパンは炎上する塊となって轟音を立てながら母親を出迎えた。

 禍々しい現実は母親の表情を無にしたが心は荒波だった。矢鱈に消火器を乱射した。戸棚には娘の結婚式で送られた皿がありそれを守るために噴射したのだがそこの火だけやっとの思いで鎮火させた時ガスコンロの火は別なところに回っていた。なぜか母親は自分でも知らずに結婚式の引き出物を掴んでガチャガチャ音を立てながら取り出してそのまま台所を覆い尽くす火と煙と青黒い大気を眺めた。なにかこの世ならざるものを見ている気持ちがあり人工物を自然がこれほど露骨に我が家を破壊するのを見るのは初めてだった。自然はもっと優雅で優しいものだと思っていた根底がひっくり返されていきなりニュースやネットで見たどこか遠い世界の情報が現実になった。自分がテレビの住人になった気分だった。足元までゆらめきが近寄ってきた所で赤ん坊の泣き声に目が覚めた。母親は消火器と皿を持って脱出すると外にいたおばさんと赤ん坊と合流した。赤ん坊が責めるように抱きついてきて皿が地面に落ちると割れた。

 消防が来た時にはもはや家が全焼に近かった。その過程を母親は眺めたり野次馬のシャッター音も聞いたはずなのだがまったく覚えていない。連絡を受けて仕事を放り投げてきた夫も突っ立っていたがはじめの一言が「は?」でありそこから無言だった。母親も無言で赤ん坊を抱えたまま火事を眺めていた。

 もう家は一種の地獄サーカスとなり台所は炎に包まれ廊下もトイレもリビングも火の海となって生物を拒否していた。目の隅にネズミがすごい速さで逃げ出していくのが見えたが野次馬たちの足元をくぐり抜けるネズミに気づく人はだれもいなかった。ただ人間たちが周りから見ているだけで手出しをしていなかった。

 遠い場所で消防士が何か言うので母親は頷きマスクをつけた消防士たちが大声で叫びながら水を吐き出し始めた。だが人間の努力虚しく自然の炎は材木や鉄や本棚や廊下を食い散らかして満悦と言ったように煙を上空へと逃しており家は火に包まれながらどこか楽しそうに見えた。それを見て母親はマラソンの末に笑顔が止まらなくなりレースが終わってもハイテンションな様子が崩れない選手を思い描いた。

 一日前一週間前一ヶ月前の思念、生活、財産全てを砕きながら火は貪欲にしゃぶり舐めてやがて食い滅ぼしていたが母親は何故かそれを見てこらえきれなくなってとうとう笑った。家があんまりにも躍動的に崩れ落ちるのだから観客として笑いたくなったのだ。梁がへし折れた音を聞いた辺りがクライマックスでいよいよ大笑いしてしまった。消防士はそういう現場を見慣れているので母親を無視したしおばさんは母親の頬を叩いてしっかりしなさいと叱った。

 いっぽう父親は怒った。父親は母親の顔の真ん中を拳で殴ったのは半ば当然であるがそのまま父親は彼女の頭を掴むと地面に叩きつけて「謝れ! 謝れ!」と叫んだのである。そのまま腹でも蹴りかねない勢いだった。赤ん坊もその拍子に地べたに落ちたのだが突然の暴力にみんな夫婦の動きに注意していた。赤ん坊は燃える家から初めて目を離して暴力劇を繰り返す二人をじっと見ていた。

 二階が崩壊するのと同時に母親は完全に土下座させられ、雷とも工事ともつかない轟音がその場で響いた。ボギギギッビビビビギとかいう音がしたがそれが面白すぎて母親は土下座しながらまだ笑っていたしいよいよ父親は怒り狂った。二人は引き離されたが母親の笑いはいつまでも止まなかったのでやがて彼女は病院に移された。いまでも家が燃えるのを思い出して母親は笑っている。父親は赤ん坊を抱え、安アパートで暮らしながらまだあの火事の日、子どもの前でお母さんに暴力を振るったことを後悔している。

《終わり》

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