見出し画像

カワセミと朝の万葉歌人

 肩にかけたバッグの中身は、紙の枚数こそ同じで擦りつけた黒鉛のぶんだけわずかに重くなってはいまいか、マスクをしているからしのびもせずに出る笑色に、そろそろ癖を直さなくてはと、また笑みがこみ上げる。戸を引いたこちら側とそちら側に蚊屋のごと涼しさの境のもはや薄く、連休が明けた月曜の、朝の課業がひけた。
 席についた彼は、手巾で粉まみれの指を拭い、物物を机の奥に押しやって、冷たいジャスミン茶を一口含んでから、まだ温みの残る小テストの束を広げた。

 休み明けから少しずつ、百人一首を読み始めていた。週に二度ある授業の一度に五首ずつ、長い山路を歩き始めたものの、振り返れば里が石橋間近く見渡せるほど、まだ麓に近い。何とてか古典は朝にばかり詰められるものだから、大半の子らはほとんど眠り猫のような顔で、習い初めたばかりの新しく古いかなづかいにたどたどしく、彼について口を動かす。新しいテキストは絵入の鮮やかなものだったが、それがイメージの助けになっているのかどうかさえも見極められずに、諳んじる彼も、また若い。 
 
奥山の(      )鳴く( )の声聞くときぞ秋は(   )
 
 花札の例は案外よく通じた。彼女らがどこでそれを知ったかまでは分からない。猿丸太夫のことははなから誰も分からない。詠み人知らずの秀歌を我が物とされた彼の、とぼけたような困ったような顔だけは、赤ペンの乾いた音を立てる彼の目にただ鮮やかに浮かぶ。
 しかし、もとよりそれは独創ではない。散り敷いたカエデの葉を錦に喩えるもくくり染めに見紛うも、秋に覚える哀愁がはじめより大陸からの借り物であったことに気づかぬままそれに慣らした身体もまだ、さいわいこの子らは持ち合わせていなかった。内に渦巻く得体の知れない灰汁に、新しく得た言葉たちを肌の外側から振りかけてやってそれを吸い取らせ、練り固めたそれをはじめて感情と呼んだ。新しく買った服を洗い初めて次の巡りの季節を待つような、一度積み上げたらどこかに忘れて来た営みの、子らはまだその途にある。

 紅葉を、黄葉と書こうがもみちと書こうがこだわらずに丸をつけてやって、得意がった彼の目もそれは見逃せなかった。後ろの席で大きな黒い眼鏡を掛けて、彼のまずい板書になじるような目を投げている三輪という生徒は、虫食いを次のように埋めた。
 
奥山の(黄葉ひらけば)鳴く(せみ)の声聞くときぞ秋は(美しき)
 
 見上げれば空を区切った枝枝を素早く飛び交う鳥たちのように、次々に小言がわいてはこだまする。まずは三十一文字に収めたことを褒めるべきか。さらっておいた係り結びも―川にかけたるしがらみのように―どこかで耳に残っていたのだろう。それにしてもまずい。何よりも、鹿と書かれるべきところに嵌められた虫の名は秋―初秋であれ晩秋であれ―の奥山の叙景からはぽっかりと浮いている。過ぎたばかりの夏だから今は懐かしくもなんともない、それとも長い休みのうちに耳にしみついて、それでとっさに浮かんだのか。無頼の徒の隠語であった「鹿十」の話をした際には訴えるようにあれほどしきりに頷いてみせていたものを、にわかづくりに張った目の粗い網では窓の外に放たれる心を絡めとることはできなったのか、彼は椅子についたまま背を伸ばし、山と積まれた紙の塔の隙間から、光に満ちたゴム敷の校庭をうち眺めた。

 ネットを挟んで対した子らが柔らかく大ぶりな球を山なりに打ちあい、奥のトラックではハードルの度に立ち止まってほとんど跨ぐように身体をよじっている。狭い敷地に蝉の留まりそうな太い樹はもとよりなく、ただ思ったよりもずっと多い見学の生徒らが蝟集するベンチのあたり、陰がちな隅にいつかの卒業生らが寄贈した桜の若い苗木が弱弱しく枝を広げている。

 一瞬間の映画だった。
 のけぞった背から上衣が滑り落ちた。はらはらと若い葉が散った。少女らの頭上に小さな鳥の羽は青く、細い枝は釣竿のように深く撓む。
 沈黙―。光。
 見えない水底で糸が切れ、「青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾」はさっと風を引いて彼方へ去ってしまう。音はない。残像も立ち消えた。
 余韻―。汀。
 残された子らはその花びらの影を写したような顔を見合わせて、おもむろにそれぞれ抜けるような青い空を仰ぐ。映写機を覗く彼、近所の野川だろうかと推してみる彼もまた、頭の内に広がる波紋は消えないでいた…。
 
 にわか調べにカワセミが留鳥としてほとんどどの時期でもよく見られることが分かると、彼は新鮮に意外な感に打たれた。机上の教材から引いてきたばかりのやまなしの五月ばかりではなく、むしろ秋が深まってあたりの色が乏しくなってからのほうが山水画に留められたブローチの色は見分けやすいかと、季節はずれの秋の翡翠を想う。彼は赤ペンの代わりに鉛筆を握り、だらしなくしわのついた紙、虫の名の上に小さく薄く「かわ」と書き足した。
 
奥山の(黄葉ひらけば)鳴く(かわせみ)の声聞くときぞ秋は(美しき)
 
 およそ里山から遠く隔たった渓谷――はふりの山と讃えるべきその獣道に散り敷かれた金色の上で、なおも天に向かって背を伸ばす残り葉の色の染まることを「ひらく」とすれば、秋は手垢じみた悲しみを脱ぎ去って新しい芽吹きの季節ともなろう。彼らが厭うほどには、古の国は寒くはないのかもしれない。たとえ極彩色に目が眩みそれに借り物の不快を覚えたとしても、それは歌が詞が取り合わせが情緒に乏しいためではない。明日香の古墳壁画に描かれた女人たちの裳裾の色がそうであるように、まさに紅を「韓」と寿ぐ万葉の眼を、永く陰翳のうちにのみ沈めていてはなるまい。このさい字の余ることにも目を瞑ろう。手痛い破調は流れを堰く石のようでも、目くるめく初秋の色の瀬をはやみ、われても末に逢はむとぞ思ふと。
 彼は念入りに鉛筆の字を消すと、朝の万葉歌人の拙歌に小さくバツをつけた。紙を掠める羽ばたきのようなその音。(おわり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?