短編小説・怪談 『奇木の森』 (アンソロジー収録作品)
呆れ返る部屋だった。天井近くにお札や御幣が乱雑に乗った神棚があるかと思えば、その下の白壁には風呂敷大の曼荼羅図が掛かり、部屋に置かれた唯一の家具である飴色の水屋の上には、瀬戸物のマリア像とサイババのフォトフレームが仲良く並んでいるのだ。そのひきだしを開ければ、コーランが出てくるに違いない。
そしてそれらすべてを凌駕するのが、目の前にいるここの主だった。
霊媒師だというから、白い着物に緋色の長袴、首から大きな数珠でも下げて呪いのひとつも唱えるのかと思ったら、破れ襖から足踏み鳴らして現れたその老女は、綿のはみ出た袢纏に膝の抜けたジャージ姿で、つぶれた座布団にどしっと座るやいなや「はいっ、入りました」と痰の絡んだ声を張り上げ、どうだと言わんばかりに白髪頭を振って見得を切って見せたのだ。
うんざりしながら顔では微笑みを作り、わたしはデジタルカメラのシャッターを切る。インチキだとはわかっていたが、こうもあからさまではまずいのではないか。そんな考えもよぎるが、提言はしない。余計な仕事をわざわざ作りたくはなかった。もう十日、家で休んでいないのだ。今日はここへ来る前に、着替えをするためだけに家に戻ったが、少しでも横になったら寝てしまうと、ソファーにも座らずに出てきた。会社で仮眠はとっているが、固い事務椅子を並べた即席ベッドでうつらうつらするだけで、ほとんど寝ていない。
「はあっ」
老婆が再びポーズを決める。笑わせたいのかもしれないが、久しぶりに座った畳の上に今にも倒れこみそうなわたしには、苦笑しか返せない。
「あの、入りましたってことは、今松島さんに、何かの霊魂が憑依しているということでしょうか」
それでも一応お愛想を言ってみると、老婆は鼻に皺を寄せて口をへの字に曲げ、ひと息ついてから「もう抜けちゃいました」と投げやりに言い放ったあと、はいおしまいとでもいうように膝を叩き、煙草に火をつけそっぽを向いた。
まあいい、わたしはわたしの仕事を粛々と遂行するまでだ。室内の撮影をしようと立ち上がると、目眩がしたので両足をふんばって堪える。もう慣れっこで、二十秒もじっとしていれば直ってしまう。とにかく、早く終わらせて社に戻って作業をしたい。そして今日こそは、わずかでもいいから家のベッドで眠りたい。
「あんた、新人さんだってね。なんての、名前」
撮影を始めると、背後から老婆が話しかけてきた。
「吉村です。先ほど名刺を」
「あんなもん、年寄りに読めるかい」
嫌味を言ったら嫌味で返された。確かに我が社の名刺は文字の大きさといい配色といい、視力のいい若者だって目をこらしたくなるようなデザインで、老眼にはただの幾何学模様にしか見えないだろう。あれを「斬新でクールで人目を惹くから良し」として採用している社長のセンスに、わたしはまったく賛同できない。他にも色々と賛同できないことばかりだが、それはすべて「俺ワールド万歳精神」から生じる矛盾と無茶だった。新人とはいえ転職六度目の中年独身女には、そんな年下のワンマン社長より、年老いたインチキ霊媒師の気持ちのほうがはるかによく分かる。
「すみません」
「別に謝ることはないけどさ、どうしたの、前の人は。なんて言ったっけ、ほらあの背の低い、坊主頭の」
「木根ですか」
会社を出しな、行ってきますと声をかけたわたしに、精気のない目礼だけを送って寄越した一回り年下の先輩社員だった。
「まったく、名前を覚える暇もないよ、毎回人が変わるんだからさ」
「すみません」
「だから、あんたが謝ることじゃないって言ってんだろ。でもねえ」
老婆がにがい顔をして、煙を吐く。
半年前、智樹の姿を見るのが辛くて前の会社を辞めて再就職した先は、ウェブサイトから紙物、販促物まで請け負うデザイン会社だった。もとはウェブ制作専門だったのが、来るもの拒まずで社員を入れているうちに、できることはなんでも受けるようになっていったという。つまりそれだけ、スタッフの入れ替えが激しい会社だった。創業五年、その間には「社長のマイ・ブーム」に振り回されてカフェや雑貨店の経営にまで手を出し、当然のことながらすべて失敗して借金を増やしてきたというが、面接ではこの話、社長の英雄譚として声高らかに語られた。良識ある社会人ならば逃げ出すところだろうが、三十七歳という、他に拾われ先のないわたしにとって、社長の自慢話を一時間聞かされただけで「明日から来れば?」と言ってくれる会社に、ノーと言う選択肢などあるはずはない。
入ってみると、数々の経営失策のツケが社員たちにのしかかっていることはすぐに分かった。十二人の平スタッフ全員が食うのにやっとの薄給で、朝から晩までその肉体と能力を拘束され搾りとられ続けている。残業、休日出勤は当然無給。無能なお前らが就業時間内に終わらせられなかった業務を、光熱費を提供して事務所を使わせてやっている、そのうえ金など払えるか、というのが社長の言い分だった。
朝から半分眠ったような顔で出社し、夕方近くに一度牛丼屋かファストフードで高カロリーの食事を摂るきりで、あとはスナック菓子をつまみながら、終電までパソコンにかじりついている同僚たちは、ほとんどが二十代。昨年新卒で入ったという女性スタッフは、髪を脂で湿らせ、化粧気のない顔に黒い毛穴を咲かせて、そばを通ると汗とカップラーメンの匂いがした。時間がなくて身だしなみにかまえないというより、そうしていなければ気持ちが折れてしまうといった感じだ。
まだ若くて能力もある彼らが、「ひどい」「死ぬ」と言いながらも辞めようとしないのが不思議だったが、ある日、わたし以外で唯一の三十代古参、多田と二人きりで泊り込みをしたとき、その理由が分かった。
多田によれば、離れていく者はそのほとんどが入った翌月、最初の給料明細を見て出て行くと言う。一方、その峠を越えた者は根をおろしてしまう。そうして、イヤだ辞めたいと挨拶のようにくり返し言い合いながら、翌朝には青い顔で出てくる。
「どうせこの業界、どこに行ったって似たようなもんですから、就職活動の煩わしさを考えたら、ここにいたほうが楽でしょう」
普段は無口で必要最低限のことしか喋らない多田が、仮眠前に奢ってやった缶ビールで饒舌になった。
「社長の発想と行動力はすごいですよ。俺にはあんな真似はできない。人脈もすごいし、やることが大胆だし。ついていきたいって思いますよね。確かに今はキツいけど、再来年には給料二倍だって言ってくれてるし、希望もありますから」
「再来年給料二倍」は社長の口癖だ。会社設立時以来変わらぬ待遇のまま、いまだに風呂なしアパート暮らしであることに目をつむり、妻子とともに都心近くの一軒家に住み、高級車に愛人を乗せて遊びまわる社長の生活の一端を、自分の一日五百円未満の食生活や月二百時間以上のサービス労働が支えているのだということにも目をつむり、酔に気を昂ぶらせて社長を礼賛する多田を見ているうち、腹で温まったビールをもどしそうになった。これまで渡り歩いてきた企業で、こんな社員を何人も見てきた。不満を言いながらもそれに甘んずるのは皆、社長を心酔することで我が身の惨めさを正当化する、このタイプだ。
床に転がした寝袋に潜り込みながら、多田は最後にこんなことを言った。
「そういえば、根をおろしたような振りをして、突然トンズラしちゃったヤツもいたな。気持ちは分かるけど、社会人としては失格ですよね。まあ、妙な病気になられるよりはましですけど」
多田がいびきをかき始めたのを確かめてから、わたしは給湯室でメイクを落とし、髪を洗った。どれほど時間がなくても、化粧と身だしなみにはきっちりと気を配る。二十代の女子とは逆に、三十代後半のわたしは、そうしていなければ自分の萎えそうな気持ちを支えていられない。
トンズラ。わたしもそのうちそう呼ばれることになるだろう。入社して半年我慢しているが、決して根をおろしたわけではない。仕事を覚えたら、さっさと独立するつもりだ。あと半年もすれば、ひと通りの内容と流れは会得できるだろう。デザインや制作の技術を高める必要はない。そんなものは、有能なスタッフを雇えばいいことだ。少々手荒だが、わたしはその人材を会社から引っ張るつもりだった。声をかければついてきそうな者は何人かいる。そうでなくとも、今の突貫工事的な仕事はあらゆるところでほころびを生み、クライアントからのクレームはあとを絶たない。こんなやり方を続けていれば、遅かれ早かれ立ちゆかなくなるだろう。社長のカリスマ性だけでなんとかもっている会社など、その魅力が少しでも翳れば、あっというまに崩れ落ちる。そのときが好機だ。
わたしにも時間はない。ぼやぼやしていたら、すぐに四十になってしまう。そうなれば、助けてくれる人もついてきてくれる人もいなくなる。誰が励ましたりなぐさめたりしてくれても、間もなく自分からある種の輝きが失せることを一番分かっているのは、女であるわたし自身だ。そのとき、胸を張って顔を上げて立っているためには、智樹より上等な男を得ているか、自分自身があの頃より上等になっているしかない。それしかないのだ。
しょき。
鋏の刃を入れるような音に振り返ると、老婆が百円ライターで、何本目かの煙草に火をつけているところだった。
いけない、ぼおっとしてしまった。早く仕事を済ませて引き上げなければ。
戻ろうとして襖に目が留まった。そこにあたった初冬のゆるい西日が、手のひらが差し込めるほどに開いた襖の隙間に分断され、向こうにある薄暗い廊下に、橙色のラインを引いている。そこに、一瞬誰かが立っているかのような、揺れる陰が見えたのだ。
近づいて見ると、板張りの廊下に置かれていたのは、ずらりと並んだポリバケツに植えられた、妙な形の木々だった。幹は雑巾を絞ったようにねじれ、ところどころに醜い瘤をつけている。方向定まらずあちこちに伸びた枝には、ワカメのような葉がだらりと垂れていた。それは、部屋に飾られたまがい物のがらくた道具よりもはるかに不気味で、一見俗物のあの老婆の、実はただならぬことを示しているようにも思えた。
息を飲んで見ていると、ポリバケツの間からすらりと、白猫が現れた。驚いて後ずさると、こちらを見つめてにゃあ、と一言鳴いた。しばらく固まって睨み合っていたが、根負けしたのか猫の方から目を逸し、再びポリバケツの間にすらりと入っていってしまった。
「あの、これも撮っていいですか」
尋ねると、老婆はめんどくさそうに、勝手にしろと手を振った。
撮影を終えると、わたしは自分の座布団に戻って鞄からノートパソコンを出した。ネットにつながったのを確認し、デジカメのメディアを抜いてパソコンに差して今撮ったデータを会社のサーバーへ転送する。待つ間にDTPソフトを立ち上げ、『末廣通り商店街ガイドブック』のファイルを開いて『F-36 除霊所松島豊子比丘尼院』を呼び出した。そこには去年までのここのデータが、住所、電話番号、ファックス番号、営業時間、定休日、写真1、2、コメント1、2と、順に載っている。今日はここの商店街で作るガイドブックの、更新内容を取材しにきたのだ。
「松島さん、これを確認していただきたいんです」
パソコンを膝からおろし、ディスプレイを向こう側に向けて老婆の前に置く。しかし老婆は横を向いて煙草の煙を吐くばかりで、顔をこちらに向けようともしない。何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。
古い建物のくせに気密性が高いのか、紫煙はいつまでもどんより顔の高さで漂い、視界を曖昧にした。
「松島さん」
にゃあ。
老婆の代わりに猫が返事をした。
見ると、いつの間に入り込んだのか、さきほどの薄汚れた白猫が、背後からこちらへ歩み寄ったかと思うと、横腹をわたしの太ももへ擦りつけながら前へ周り、図々しくも膝の上へ載って、そこにちょこなんと箱座りしてしまった。
「きゃあっ、しっ、しっ」
わたしは白猫が大嫌いだった。猫そのものは好きでも嫌いでもないが、白猫は別だ。
「しししっ、しっ」
じっとしている猫の眼前で手を振ってみるが、まるで動じない。膝を揺らしてみても、吸盤でくっついたように離れない。
「松島さん」
煙の向こうに呼びかけてみたが、インチキ霊媒師の顔は横を向いたまま。しかたなく、わたしは乾いた泥のこびりついた猫の背を、手のひらの手首に近い部分でおそるおそる押してみた。しかしこれが、むにゅりと肉が動くだけで、体は重石のようにびくともしない。身震いしながら手首を返すと、そこには白い獣の毛が、ごっそりと貼りついていた。
「うわあっ」
慌てて手首をこすり合わせ、毛を落とす。今すぐここから出てきたい。
猫の毛に、最初に気づいたのは冬だった。テレビを見ていた智樹の紺色のセーターのあちこちに、白く短い毛が絡まっているのを見つけた。わたしたちは動物を飼ったことも、部屋に入れたこともなかった。
「ねえ、これ何の毛?」
つまみ取って智樹の鼻先へ持って行くと、彼はそれをちらっと見て、すぐにテレビへ視線を戻し、
「しらんっ」
と大きな声を出した。
獣毛との関連性は分からないが、智樹には何か後ろめたいことがあるのだということは分かった。だからと言って、わたしは彼を問い詰めたりはしなかった。それは元々の性分というよりも、自分が彼より五歳も年が上であるということから自然に演じるようになった、役柄のせいだ。
智樹とは会社も一緒だったので、隠しごとはしいにくい間柄だった。だから、彼のとった意味ありげな態度は、わたしにはショックというより新鮮な驚きの方が先で、あの女が目の前に現れるまでは、詮索する気もなかった。
それから半年後、初夏の日曜日に二人で映画を観た帰りだった。カフェでコーヒーを飲んでいると、智樹が、窓を背に座ったわたしの肩越しに何かを認め、ほんの一瞬だけ眉を吊り上げた。振り向いて見ると、道の向こうに背の高い、黒いロングワンピースを来た女が、こちらをじっと見つめている。手には赤いバスケットを提げており、その上蓋から獣の白い尾が、だらりと垂れて籠を撫でていた。
「誰なの」
言いながら前を向くとそこにはもう誰もおらず、再び表を見ると、女の方へ向かって車道を渡ろうとする智樹の背が見えた。
そこで何やら数分揉め合ったあと、二人は連れ立って店に戻ってきた。近づいてくると、背丈だけでなく剥き出しの腕もひょろりと長い、くにゃくにゃした印象の女だった。どんな顔をすればいいのか、考える間もなくドアが開いた。しかし、入ってすぐにバスケットの中身みについて店員に注意され、智樹とひょろり女は揃って表に出てしまった。取り残されたわたしに、智樹は窓の外から手招きをした。そこでわたしは初めて、こめかみがどくんと波打つような怒りを覚えたのだった。
わたしは智樹に向かって首を振った。そして前へ向き直って携帯電話の電源を切り、そこで二時間を過ごした。何ごともなかったような顔をしてスーパーで食材を買い、アパートに帰った。いると思った智樹は不在で、そのまま帰らなかった。
翌日、会社の廊下で智樹に会った。家に帰っていないのにきちんとスーツを着て、ワイシャツにはアイロンまでかかっていた。わたしはこれまでに何度かあった彼の外泊先がどこだったのか、大人ぶって澄ましていた自分がいかに間抜けだったかを知った。
ぴしゃ、ぐちゅ。
白猫が何か食べているのか、舌を鳴らしている。冗談じゃない。これはクロエのスカートだ。汚されたらたまらない。どけ。どけ。念じてみても届くはずはなく、老婆も煙の中で相変わらずそっぽを向いている。
押してだめなら立ち上がって落としてしまおう。そう思うのだが、今度は自分の体が動かない。だとすれば相当重いはずなのに、それにしては少しも苦痛を感じていなかった。それどころか、ほどよい柔らかさとぬくもりに、まるで湯たんぽを抱いているような心地よさだ。
まぶたが落ちてきた。嫌いなはずの煙草の煙が、お香のように甘く、ゆっくりとわたしの体に入りこんでくる。
かくんと頭が落ちた。慌てて背中を起こし、目を瞬かせる。まずい、寝てしまう。早く会社に戻って作業をして、明日にはこれを印刷所に入稿しなければ。イラストレーターにマップのイラストを催促しなければ。橘英語塾のサイトは更新しただろうか。多田に確認しなければ。ネイルサロン・ハナコのパンフレットの撮影手配もまだだった。カメラマンとライターは誰に頼もう。居酒屋真ちゃんのメニューの色校正は今日出るはずだ。多田は行ってくれているだろうか。今日中にしなければならないことはまだまだある。こうしている間にも、コートの中でオフモードにしてある携帯電話には、メールと着信履歴が溜まっているだろう。
垂れてくるまぶたを懸命に釣り上げる。しかし頭はとろとろと溶け、ガクン、コクンと前のめりに揺れた。
よりによって、こんなときに本物の睡魔に襲われるとは。
この半年、わたしは不眠で悩んできた。智樹と別れたことで家と職を一度に失い、貯金を取り崩して今どき学生も住まないようなボロアパートを借り、やっと雇われた先では新卒と同じ給与で年下の社長にこき使われ、心も頭も肉体も疲れきっているのに、鎮まらない。やらなければならないこととやってしまった失敗とが、常にどこかでわたしを睨みつけ、責め、急き立て、眠らせてくれないのだ。
眠れないなら眠らなければいい。そんなふうに言う人もいた。眠らないで済むならこの山積みの仕事、一日でやっつけられるじゃないですか。木根は真顔でそう言って、カフェインのタブレットをコークで飲み下した。社長の真似をして、できる男を気取っているのだ。
分かっていない。苦しいのは、眠れないことそのものでなく、眠れないせいで「忘れられない」ということだ。人は眠らないと、忘れることができない。悲しいことも恥ずかしいことも怖いことも、ぐっすりと眠らない限り色褪せることなく、体験したときと同じ濃度で、毎日胸ぐらを掴んでくる。ひたひたと、少しずつ、冷たい針先を胸に沈めてくる。だから人は眠るのだ。
しかし、今ここで眠ってしまうわけにはいかない。眠るのは仕事を終えてから、家のベッドでだ。
眠気を飛ばすために、頭を振る。振るごとに覚醒し、冴えればあの光景がよみがえる。
わたしにはそれが、この世のものではない化け物に見えた。智樹の浅黒い背中と腰に食い込むように絡みついた真っ白な腕と足。そう認識するより先に、二人がひとつの生き物に見えたのだ。獣の呻き声がし、腐った海藻の匂いが立ち上り、規則正しい動きに合わせて湿り気と粘り気の混ざった音がした。化け物が、わたしのベッドで捕食活動をしている。そう思って悲鳴を上げた。ベッドの下から白っぽいものが飛び出し、本箱を駆け上って天井との隙間に入り込んだ。ひょろり女の白猫だった。自分の声とも思えないガラスを引っ掻くような悲鳴が消えるまで、頭上の二つの目はまん丸く広がり、光り続けていた。
あれは智樹が悪い。カフェで遭遇したあと、ひょろり女とつきあいたいと言う智樹に、わたしは恨み言ひとつ言わず、すんなり承諾してやった。演技だったかもしれないし、強がりだったかもしれないが、自分でも不思議なほど醒めた気分だった。
ひとつだけ、約束したことがあった。三年もの間暮らした家からは、二人とも出て行こうということだ。わたしはそこに一人で住む経済力はないし、かと言って智樹と女が暮らすことだけは、許し難かった。
智樹は納得し、約束してくれたのだ。だからあの日、彼より早く引越したわたしが、忘れた荷物を取りにアパートに戻ったことに、何の落ち度もない。まだ契約中の自分の家に、自分の鍵で入ったのだから。
なのにわたしの方が叱られた。智樹は素っ裸で、アホみたいに逆上して壁を打ち、床を踏み鳴らし、壊れてしまうのではないかと思うほど乱暴にドアを開け、文字どおりわたしを表に叩き出した。
以来、わたしは智樹を信じられなくなった。今日もひょろり女を家に上げているのではないか、今もいるのではないかと、気が気でない。もうあんなものを見たくはないと思いながらも、アパートのそばまで行く、新聞受けを押して中を窺う、電話をかける。それが、やめられなくなってしまった。未練でも嫉妬でもない。約束を破られるのが嫌だっただけだ。
わたしたち二人の勤め先は、照明器具メーカーの販売促進部だった。智樹は営業課、わたしは制作課に属し、同じフロアで働いていたが、関係は表向き秘密にしていた。しかし三年も同棲していれば、部内に隠しておけるものでもない。智樹は日中表に出ることが多いので気づかなかったろうが、別れたあと、女子社員たちから向けられる憐れみの視線は、たいそうわたしを傷つけた。また、毎日顔を合わせる智樹の、ワイシャツが、靴下が、ハンカチが、ひょろり女の手で洗われたのかもしれないと思うだけで、動悸がして仕事にならなかった。
そうしてついに、わたしは頼まれもしないのに、退職届を出した。
しかし会わなくなれば楽になると思ったのは、大きな間違いだった。共有するものがなくなったという不安は、わたしを暗い、空っぽな闇の中へ突き落とした。そこから這い上がって息をするには、どこかで智樹と繋がらなければならない。
深夜の電話、今にして思えば、あれがいけなかった。自ら智樹との間にあった橋を、叩き壊したようなものだ。
ねえ去年観たあの映画、なんていったっけ? あのパンケーキの店、どこにあった? ブーツを買うんだけど、何色がいいと思う?……
うまくいっていたときには当たり前にできていた特別意味などない会話が、背かれたとたんにしてはいけないものになったことに、わたしはなかなか気づけなかった。
智樹は、最初は丁寧に答えてくれたが、次第に不機嫌になり、やがて冷たくなって、しまいには電話番号を変えた。
あんなことさえしなければ、今ごろ気軽に、連絡をとることができたかもしれないのに。
「久しぶり。実は仕事で近くまで来てるの。よかったら、お茶でもどう?」
智樹は懐かしそうな歓声を上げるだろう。そして、明るくふるまううわたしを気遣って、きっと最後にこう言うのだ。
「あのときは俺が悪かった。本当に、ごめんな」
それさえ聞ければ、べつに会えなくてもいい。
ぴしゃ、ぐちゅ。
薄汚い白猫が、まだ舌を鳴らしている。この音が悪いのだ。あの化け物が出していたのと、同じ音。
ぴしゃ、ぐちゅ。
黒い滑らかな胴体から生えた、白い四本の触手。白子のようにぬめぬめと光りながら黒い胴の上を這うその化け物が、二人の人間だと分かるまでの、わたしの智樹とひょろり女だと分かるまでの、長い長い時間の映像が、半年もの間、まったく頭から消えない。
眠れないからだ。眠りは記憶の糸をゆっくりだが確実に削いでいく。そしていつか消してくれる。医者の薬はいっとき眠らせてはくれるが、それは睡眠ではなく停止だった。薬が切れて目覚めれば、眠る前のわたしが、記憶を持ったまま起動する。
眠気が背中から覆いかぶさってくる。まるでこの半年分を、今ここで眠ってしまおうとするかのような、ずっしりと重い睡魔だった。
いけない。絶対に眠ってはいけない。わたしは酩酊したように揺らぐ視界の中で、膝に載った猫をとらえた。
分かっている。泥にまみれてすっかり野良猫に身をやつしているが、これはひょろり女の飼い猫だ。あのとき、本棚の上で黄色い目を光らせていた白猫だ。その証拠に、尾がない。
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