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Fire Waltz --- スガダイロートリオ+東保光 at アケタの店

 彼の演奏は、上澄みの清らかな水面を見せてしんとしているわたしの、底を叩いて水を濁らせる。その挑発に揺さぶられ、もがいて自ら溜まった泥を掘り返すうち、キラキラ舞い光る砂粒の中から、重要な宝物を見つけ出すことがある。
 そんなスガダイローのライブは、わたしにとって、気軽に行って聴いて飲んで酔って陽気に楽しめばいい、というわけにはいかないものだ。へこたれて干涸らびた状態で底を叩かれたら、ひび割れて壊れてしまう。
 だからここ最近、彼の演奏を聴けなかった。新型コロナウイルスも含めて落ち着かぬ中、心配と不安と自信喪失と、様々なことが相まって、へこたれてしまっていたせいだと思う。この嫌な感覚を、今、世界中の人と共感できる気がすることにぞっとする。

 12月8日の夜、西荻窪アケタの店にて、スガダイロートリオ+東保光。半年振りのライブである。
 行ってみる気になったのは、単純に音楽が恋しかったのかもしれないし、現トリオに旧トリオのメンバーである東保光氏が加わるという試みに、励まされたかったのかもしれない。店がある地下に続く埃っぽい階段を降りる時、抱えていたのは飢えに似たものだったような気もする。
 ファーストセット、やはり今のわたしは干涸らびているな、と思った。ぞくぞくしているのに、揺さぶられない。店の装飾や揺れる影に目が行き、気が散ってしまう。それでも飢えていた耳は、音をごくごく飲んでいく。

 セカンドセットの2曲目あたりだったろうか、あのイントロを予感させるフレーズが流れた。彼の演奏で数え切れないほど聴いた、『Fire Waltz』だ。

         ***

 エリック・ドルフィーの『Fire Waltz』は、わたしが最初に夢中になったジャズの曲である。
 二十代の頃、阿部薫を知ってそれを流しながらひたすら小説を書いていた時期があり、そこで覚えた「フリージャズ」というジャンルをレコード屋に行くたび覗いていたある日、試聴機に入っていた『AT THE FIVE SPOT』に目を留めたのが出会いだ。『Fire Waltz』は、そのアルバムの一曲目に入っていた。
 近ごろ音源はインターネットかライブ会場で買うようになり、滅多にCDショップに行かなくなってしまったが、今でも試聴機は置いてあるのだろうか。あの大きなヘッドフォンを着け、店内に流れる大音量の最新曲から切り離されると、体全体を柔らかな膜で覆われたような気がしたものだ。耳以外の感覚が鈍くなり、はじめの音が鳴った途端、膜が弾けて世界が色づく。

 はじめて『Fire Waltz』を聴いたときも、そうだった。パンッと弾けた瞬間、マーブル模様に色づいた世界の中で、わたしの持て余していた燃料が一気に燃えはじめ、いてもたってもいられなくなった。叫びだしたくなった。

 しばらくの間は買ったCDを聴き耽っていたが、やがて、あのめくるめくサックス演奏をライブで体験したくなり、ピットインやアケタの店などに、適当にアタリをつけて行くようになった。まだ、インターネットがなかった頃のことである。どこにどんな演奏家が出ているのか、調べようもない。RCサクセションのファンだったので、梅津和時さんや片山広明さんをとっかかりに、手探りするしかなかった。
 しかし、いいライブはたくさんあったものの、あの興奮を味わうことはなかった。

 だいぶ月日が経ち、小説家としてデビューして間もない頃、ツイッターに、「手持ちのジャズ音源で一番のお気に入りはエリック・ドルフィーの『At The Five Spot vol.1』というわたくしは今、何を聴いたらいいのだろう。ライブで聴きたい」と投稿した。独り言のつもりだった。
 ところがそれに対し、見知らぬフォロワーから「スガダイローはどうですか」とリプライがついた。知らぬ名だ。調べると、ピアニストだった。エリック・ドルフィーと言っているのにピアニストを勧められたのは、少々不満だった。興味も持てなかった。
「ありがとうございます。機会があったら聴いてみます」
 というような、社交辞令の返信をしたと思う。やりとりは、それで終わった。
 しかし、それを読んだ別の人から「わたしもお勧めします」と、スガダイローのライブスケジュールがリプライされてきた。彼のツイッターアカウントまで書いてあった。困ったな、と思った。
 再び社交辞令の返信をし、それでも一応見ておくかと、スガダイローという人のツイッターを見た。熱量の高い研磨された言葉が弾丸のように撃ちまくられていて、読むうちに笑い、唸り、気がつけば演奏を聴きたくなっていた。
 数日後、荻窪ベルベットサンでスガダイロートリオ(スガダイローP、東保光B、服部正嗣Dr)を観た。2010年5月5日のことである。
 陳腐を承知で表現すると、グランドピアノは大地を揺るがし、ドラムは火花を飛ばし、ベースは宇宙を作っていた。本当にそう思えたのだからしかたがない。彼らの中心には観客を凄まじい勢いで引きずり込む渦があり、そこにいた者たちは全員、陶然としてその渦に飲まれていた。
 わたしも飲まれた。何年もの間求めていた、あの興奮以上のものがあった。そうして、スガダイローのピアノの虜になった。

 以来、彼のライブに行くことは、朝羽ばたくように起き、日中駆け抜けるように仕事をし、夜は倒れ込んで眠るための、わたしの大きな大きな糧になっていった。生活のリズムに組み込まれた、大切な時間だった。

         ***

 アケタの店の、新型コロナ以前と何ら変わらぬ濃い闇とそこここで淀む空気を、じわじわと破るようにして、スガダイローのピアノが、あのイントロを予感させるフレーズを奏でだす。わたしはまるで自分の背中にたてがみが生えたように、それが一斉に立ち上がるのを感じる。
 波のように迫りくる予感が確信に変わり、爆発を引き起こすメロディーに繋がったとき、わたしの中に僅かな水が湧き出、振動する感覚があった。それだけで、十分だった。
 わたしは今夜、たぶん、これを聴きにきたのだ。

 特別な思い出に紐付いているわけでもないのに、ただその音色と旋律で人の内側を震わせてくる、音楽というものの力は何なのだろう。
 心配と不安と自信喪失で干涸らびたここに、再び水が満ちる日のことを想像させてくれたこの夜の『Fire Waltz』を、今はだた抱きしめている。

わたしは日本のGIベビーの肉親探しを助ける活動をしています[https://e-okb.com/gifather.html]。サポートは、その活動資金となります。活動記録は随時noteに掲載していきますので、ときどき覗いてみてください。(岡部えつ)