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メランコリック

数年前、「人生の秋を素敵に生きてらっしゃいますね」と言われ、ぞっとしたことがある。そのときわたしが真っ先に思い浮かべたのは、薄茶に染まって固くなった葉が、薄ら寒い風に吹かれて心もとなく落ちていく様だったのだ。
いつでも盛夏を生きているつもりだったわたしにとって、秋とは”終わりの始まり”の季節だった。いつの間に誰につけられたか知らないが、ある数字の年になったら終わりを始めなければならぬという重い鎖が、「関係ないね」という顔をして生きてきたわたしの足にも、しっかり結びつけられていたのだと思う。

秋とは本来、実りと収穫の季節だ。
そうであれば、人生の秋とは充実のとき、たわわに実った果実のときなのだ。枯れている場合ではない。一番に考えるべきは、その実を腐らせないことだ。
熟した果実は生きものを肥やし、成長させる。わたしは今、その力を持っている。お腹を空かせている者に、甘くて栄養たっぷりなこの実を届けなければならない。

などと考えて己を励ましてみても、果たしてわたしは甘くて栄養たっぷりに実っているのであろうか、とすぐに気持ちが萎(しお)れてしまう。
秋が憂鬱なのは、その先に冬が待っているからだ。人生の冬。考えたくもない。
人生を季節に喩えるのが、そもそも悪い。何歳が真夏を生きようが、青春しようが、構わないではないか。

青春といえば、五行思想では、青春、朱夏、白秋、玄冬、と季節に色をあてて言うそうで、秋は白である。
色とくれば、相撲好きとしては土俵の四方の柱に下がる房の色、青、赤、白、黒を思い出さずにはおれない。この色にはそのまま、青龍、朱雀、白虎、玄武、の霊獣があてられる。
秋と同じ白色の虎は、西の方角を守っている。日が沈む方角である。またしても気が沈んでしまった。

五行五元素で、白色は「金」だそうだ。この場合の金は、MoneyではなくMetalであろう。固くて融通がきかなそうである。しかし火にくべれば溶ける。溶ければどんな形にもなる。鍛えればスパッと切れる刃物にもなる。斬鉄剣にもなる。仕置人に仕えて、極悪人どもを斬りまくることもできる。
少し元気が出てきた。誰を斬ってくれよう。

若い人が、年長者を「じじい」「ばばあ」最近では「劣化」だのと言って斬りかかるとき、彼らが振り上げている武器は「若さ」である。
「若さ」は尊い。「若さ」は貴重だ。「若さ」は二度と手に入らない。そして「若さ」は強い。
その強い武器を使い、敵を斬り倒すことに青春をぶつけたい気持ちはわかる。しかし「じじい」も「ばばあ」も「劣化」も、若さの敵ではない。どれも、若さの先で待っている同胞だ。
「若さ」の刃を向けるべきは、別にある。
そうだ。若いとき、本当の敵を見つけ、そこに斬りかかっていけたものにこそ、充実の季節が待っているのだ。

本当の敵は、たいてい己の中にいる。斬りかかるのには勇気がいる。しかし、それを倒さなければ、何も実らない。
人生の秋を迎えたとき、Metalを溶かして鍛えて見事な刃物をこしらえても、刈り取る実がなければ、ただのじじいばばあだ。ただのじじいやばばあが闇雲に振り回す刃物は、「老害」でしかない。

さて、わたしはどうだろう。今は失った「若さ」の剣で、何を斬ってきただろう。斬るべきものを斬らず、つまらぬものばかり斬ってきたのではなかろうか。だから今、充実を刈り取れず、なまくらの剣を手に、途方に暮れているのではないか。

秋はどうにもこうにも、メランコリックだ。わたしは今、その季節を生きている。

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