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バディ

オサムとアキラにはじまって、ルパンと次元、ブッチとサンダンス、ミックとキース、清志郎とチャボ、ヒロトとマーシー、桜木と流川、シャーロックとジョン……といったバディたちに、折々心惹かれてきた。
この現象に、名称はあるのだろうか。衝突しながらも決して離れず、無意識に協力し合いながら究極的な目的、あるいは破滅に向かって突き進んでいく男二人の ”関係性” に、ときめく心理のことである。

おそらく、これが極まったものの一つに「BL」というジャンルがあるのだと思うが、今したいのはその話ではない。離れ難い愛情を互いに持ち合い、物理的に離れようとも万有引力に逆らえぬがごとく自然に引き合いくっついてしまう男たちの関係に、わたしが不可侵の気高さや清廉を見るのは、そこにセックスがないからなのだ。
性愛ではなくイデア愛、"プラトニック・ラブ" の純粋さに対する憧憬が、そこにはある。

バディの愛は純粋ゆえに、一粒のゴミでも入り込んだらもろい。ゴミ=不純物とは、性愛である。つまり、彼らの関係性にとって、大方のゴミは女ということになる。 だから “バディもの” のストーリーに出てくる罪のない女たちの素直で可愛い愛は、たいてい酷い扱いなのだ。しかし憎みきれない。それも、その脆さゆえだろう(当然女のバディものでは、男がゴミ扱いとなる)。

バディはいつでもどこでも一緒にいる間柄ではない。何かの場面、ある特定の案件において、すいっとタッグを組む関係だ。普段はお互い、何をしているのか知らないでいる。
その場面が来たとき、二人はパズルを合わせるがごとくぴたっとはまり合い、奇跡、あるいは破滅を起こす。それができることこそが、バディの証である。
わたしが焦がれるのは、その魔法のような一瞬だ。

昨夜、西荻窪アケタの店でスガダイローと東保光のデュオを観た帰り道に、つらつらとこんなことを考えていた。それは終演後、スガ氏が久々の東保氏との共演について「光さんは、いつもそこにいる」と言ったひとことのせいだと思う。
東保氏はかつてスガダイロートリオのメンバーだったが、演奏活動からしばらく遠ざかっていて、この夜は貴重な二人一緒のステージだったのだ。
かといって、そこで奇跡や破滅が起きたわけではない。しかし「光さんがいつもそこにいる」感じと、それを受けてスガダイローがギアを上げていく演奏は、あの頃のトリオに熱狂した身としては、震えないわけにはいかなかった。

家の最寄り駅に着くと、ロータリーにはクリスマスのイルミネーションが寒風に揺れていて、わたしは今年成し遂げられなかったことを思い出し、少し暗い気分になった。それでも、先ほどまで耳に響いていた二人の演奏を思い出し、おそらく二人にしかわからぬ様々な共鳴の瞬間を想像すると、胸が温かくなってくるのだった。

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